努力の多寡は視点の違いによる(あるいは読まれる努力)
努力の多寡って主観にすぎないとぼくは思います。
主観には自分の主観と他人の主観と2通りあるんだけどさ。
例えば、体重250kgのA君が10kmマラソンに出場するために『必死に努力して』トレーニングを行ったとしましょう。
努力のかいあって、猛トレーニングのかいあって、最初の300mでA君はトップに立つことができました。
『万年ドベのA君が300m時点で1位だとぉ、猛トレーニングをおこなったな! ずるいぞー、と観客が言ったとか言わないとか』
でもね、そこで力を使いすぎたA君は1kmのあたりで失速してさ、最終的にドベになっちゃったんですよ。
で、ゴールする時分には、テープをもってる担当者以外は帰っちゃってました。
みたいな状況があったとして、A君は努力したと言えるでしょうか?
A君の主観では努力してますけれど、それ以外の人からはどう思われるでしょうね?
『努力してないから、弱者なのだ』って決めつけます?
本音を言えば、ぼくは周りがどーこー言うんじゃなく、本人が決めるべきだと思うんだよね。
努力って必ずしも結果と結びつかないからね。
他人の主観で決めるのも論理的にはありなんだけど、残酷なんだよ。
まぁ、お気に入り作家さんやフォロワーさんが言うなら、『単に視点の差にすぎないから、あなたがそう主張したいなら好きにしていいよ』というところまでは譲ってもいい。
ゆるーいエッセイを読まれてる方の中にはお気づきの方もいらっしゃったけどさ。
あのエンパワメントのエッセイ、実はゆるーいエッセイと比べると、2元論側にかなり寄せてます。
2.5次元ぐらいですかね。
これは、ぼくなりの読まれるための努力なんですよ。
もっとも感想返信は普通に多元論でやってるから、考え方が違いすぎてかなり不気味に見えるかも知んないけどね。
今回はそんなお話。




