『相手の立場になってものを考える』(多元論者特有の生きづらさ)
『相手の立場になってものを考える』ってよくいいますが、そのとき非常に多くの人が、相手の立ち位置に自分を置くことでものを考えています。
つまり、『相手の考え』を考えるんじゃなしに、相手の状況で、自分がどう考えるかを考えている。
もっというと、自分の前提、自分の宗教観、自分の倫理観、自分の道徳観、自分の法律感、自分のモノサシで相手の考えを決めつけている。
こうして、できたいわゆる『共感』。
これ、定型発達者同士だと割と有効に機能するんですが、定型発達者と発達障害者、発達障害者同士だと少ない試行回数で大きな齟齬が生まれえます。
モノサシの違いが大きいためです。
曰く、『発達障害は空気が読めない』っていうのも、これが原因かもしれません。
このエッセイを読んでくださったみなさんは、お気をつけくださいね。
相手をやり込めようと、嬉々として自己投影(自己開示)しちゃう人が生じたりさ。
小説とか作品の中に書いた人の本音が現れるんだー、とか言い出す人とかね。
ほんとに多いんですよ? こういう考え方の人。
高知能者なら、これを悪用して相手に気づかれないうちに自己開示させることができますからね。
ご用心を。
ぼくはそういう考え方はしません。
『相手の立場で相手が考えていること』を考えます。
これをやると必然的に多元論になり、共感が『博愛寄り』になります。
義理人情とかいわゆる共感性の高い人達って、博愛からはめちゃくちゃ遠いんですよ?
ちょっと例をあげてみましょうか。
Aさんっていう重度の怪我をした人が運び込まれた病院に、あとから、Bさんっていう極めて重度の怪我をした人が運び込まれたとします。
Aさんは貧乏な二等国民、Bさんはお金持ちな上級国民でした。
Aさんは普通の手術室で手術をした場合50%の確率で生存、集中治療室で手術をした場合70%の確率で生存。
Bさんは普通の手術室で手術をした場合助からず、集中治療室で手術をした場合50%の確率で生存するものとします。
こんな状況で手術が行われ、Aさんは死亡し、Bさんは助かりました。
Aさんの遺族はいたたまれないですよね。
「なぜ、症状の重いBさんが助かって、症状の軽いAさんが死ななければならなかったのか?」
「なぜ、あとから運び込まれたBさんが一つしかない集中治療室を使えて、先に運び込まれたAさんが普通の手術室に送られたのか?」
「Aさんが貧乏だから殺されて、Bさんが金持ちだから救われたのか?」
Aさんの遺族が病院関係者に詰め寄る気持ちを考えると胸が痛くなります。
反面、ぼくは、遺族の心痛を考えて何も言い訳せずにいる、両方を救おうと尽力したけれど結果として失敗した病院側のスタッフにも共感するんですよ。
『公平さ』のモノサシが双方で異なるんですが、どっちのモノサシも視野に入っていると、双方に共感してしまう。
Aさんの遺族は、『早く着いたものは早く処置されるべき』、『症状の軽いものは症状の重いものより予後が良いべき』というところに『公平さのモノサシ』をおいているのに対し、病院側は、『命は等しく救われるべき』といったところに『公平さのモノサシ』をおいている。
あるいは、病院側は公平さというよりも、『すべての命を救いたい』というモノサシをもっているのかもしれません。
そうして。
両方の視点に立てると、どっちか片方だけのそばに寄り添うことができないのです。
さらに、双方に共感しちゃうものだから、双方の誤解や落ち度をフォローしたりさ。
いつもいつも調停役になっていて、『すげー損な役回り』をさせられている気になる。
物心付いた頃からずっとそうだし、片方だけに寄り添えないから自動的に孤立する。
多元論者は多元論者特有の生きづらさがあるよっていう、今回はそんなお話。




