「メタ認知」と「生きる意味」
今回は、「メタ認知」と「生きる意味」について考えてみようかなー、と思います。
まず、「メタ認知」を「『自分自身を客観的に見つめるとどんなものなのか?』を自分で理解ること」というふうに定義します。
繰り返し書いているように、それを測るためのモノサシって、実は次元のサイズによって変わっちゃうんですよね。
補足しますと、ここで言うサイズとは、『多様性の大きさ』だと思ってください。(必ずしも物理的な大きさを意味しません)。
例えば、クラスで『学級委員長』に選ばれて、クラスのみんなから一目置かれている子がいたとします。
メタ認知では、『私は、場を仕切るのが得意だ』と自己評価していたりしてね。
間違ってはいないのです。
ある一面では。
ところがその子が、部活に入部します。
部活の場では、ぺーぺーの1年坊で、補欠にもなれない『球拾い』でした。
場を仕切るだなんて、とんでもない!
その場では、先輩に意見することすら許されないモブキャラ、なのです。
私って、なに? ってなりません?
考えているうちに、思考がぐるぐる回っちゃったりしてね。
こんなふうに、「メタ認知」で出てくる自分っていうものは『変数』を含んでいるんです。
自分と一緒に切り出す次元によって、ガラッと内容が変わっちゃうんですね。
同じようなことが、『生きる意味』についても言えます。
みなさん頭を悩ませるのが大好きな『生きる意味』。
ソイツもまた、自分と一緒に切り出す次元によって中身が変わってくる。
そんなことで、いちいち悩まないでよろしいのです。
例えば、家庭におけるぼくの生きる意味。
ぼくが○ぬと両親の借金が返せない! 親の借金の返済こそがぼくの生きる意味なんだ! とか。
あるいは、学校におけるぼくの生きる意味。
ぼくは、両思いのAちゃんと恋するために生きている! とかさ。
なんでもいいけれど、自分がポジティブに受け取れる次元の外枠を、適当に悩めるみなさんそれぞれ好きに持ってこられたらよろしいんじゃないですかね?
そうして。
この変数、実は0も取れるんですよ。
すなわち、意味や目的なんて端からないじゃん? って答えも可能。
ぼくは、シラフのときはそっちですが、正直に言うと『どうでもいい。』(どのスタンスも本心で取れる(多元論))
今回はそんなお話。




