思春期の子が思い悩む理由(正しいことってなんぞや)
おもに、二元論が確立してくる思春期の頃にありがちだと思うのですが、『正しいことってなんぞや』みたいなことを、みなさん思い悩んだ経験はおありですか?
今回はそのことについて考えてみようと思います。
例えば学校にて。
『先生』と『生徒』の関係性は、生徒側から見たとき、生徒『個人』と担任教師『個人』になるのだけれど、先生側から見たときには、担任教師『個人』と担当クラスの『生徒たち』になりますよね。
わかりやすくするために、一つ次元を落としましょう。
兄弟がいる子供を想像してみてください。
子供と親の関係は、子供から見ると、きょうだい『個人』と『親』、ぼく『個人』と『親』なのに対して、『親』から見ると『愛すべき我が子たち』になります。
ここで、少し前のエッセイで書いた『次元のサイズによってモノサシが変わる』話を思い出していただきたいのです。
見る位置によって、お相手側の『サイズの大きさ』が異なることはご理解いただけると思います。
つまり、何がいいたいかって言うと、『先生側の考える正しいこと(あるいは最善・最適)と、生徒側の考える正しいこと(最善・最適)』、『親側の考える正しいこと(最善・最適)と、子供側の考える正しいこと(最善・最適)』は、『異なっていて当たり前』だということです。
『正しいもの』はどこに持っていっても『常に正しい』と勘違いしているがゆえに、思い悩むのです。
いろいろな正しさが見えていないからこそ、トラブルになるのであって、実の所は双方を満足させるもっと適した解があったりします。
これは正しさのみならず、モノサシすべてそうです。
例えば、親は公平に子供を愛してるとしましょう。
そうして、『ビンボーな暮らしの中で、子供にできるだけ多くの服を買い与えたい』と思っていたとします。
そんな場面を想像していただいて、きょうだいそれぞれに好きな服を選ばせたあと、そこできょうだいに選ばれなかった長く着られそうな服を、体の大きい方を基準に買い与えた、とします。
そのほうが、多くの服を『子供』(複数であることに注意してください)に与えられますから。
『どちらの子も選ばなかった』長く着られる服は、体が成長するまでの当面は体のサイズが合う大きい方が着ればいいし、小さい方もいずれ成長すれば着られるようになる。
親としては、公平に分け与えているつもりだったりします。
ところが子供の方は、そう思うでしょうか?
『いつもいつもお兄ちゃんお姉ちゃんばっかりおまけしてもらえてずるい、ぼくのことは愛してくれてないんだ』って思い悩んだりするんじゃないのかな。
そうして、大人になってその子が兄弟姉妹の親になると、あるいは教師として就職すると、その時のお相手の考え方がわかったりします。
『別の考え方(正しさ)があったんだ』って。
世に大人たちのいうところの「大人になればわかるよ」ですね。
まぁ、世の中見えてないことっていっぱいあるよ。
今回はそんなお話。




