二元論の問題点(親ガチャを例に)
まず前提。
『善』と『悪』みたいに、『極』と『極』に分かれる考え方を二元論っていう。
この考え方をいろんなものに当てはめると、世の中『極論』ばっかりになっちゃってさすがに使い勝手が悪いので、実際に運用する上では、『極』と『極』の間に棒を生やしたりしますよね。
世の中、善と悪の2極に分かれるのは変わらないのだけれど、『善』と『悪』の間には棒があって、間に無数に点があるみたいな。
こんな、棒の生えた二元論みたいな考え方が、実は世の中の主流の考え方なんじゃないかな? ってぼくは思っています。
『いや、そんな考え方はしない』とか、『そうそう、そんな感じ』とか、ご感想でお教えいただけると嬉しいです。
ぼくはそういう考え方はしないので、自信がないのです。
閑話休題。
さて、二元論の極に、『自己責任(本人の努力)』と『親の責任(親ガチャ)』をそれぞれ置いて、現在の自分の位置(状況)を嘆いてみるとしましょうか。
どうなります?
人によって棒の上の立ち位置って変わってきますよね。
『親ガチャの影響は極大だー』とか、『少なくとも親ガチャはあるはずだー』とか。
あたかも、『前提として』親ガチャってもんが、存在するように見えてきませんか?
そう思われるなら、勘違いでね。
論理的に見ると『すげーやべーこと』をやってるんだ。
実はこれ、『親の責任(親ガチャ)の有無』っていう2極と『自己責任の有無(本人の努力の多寡)』っていう本来別次元の2極を『等価』を使って連結しちゃってるんだよね。
『親の責任有り=本人の責任無し』、『親の責任無し=本人の責任有り』って感じでさ。
これのどこが問題か。
2×2の行列つまり、田んぼの田みたいなのを想像してもらって、責任の有無を4つの場所に当てはめるとわかると思うけど、『親の責任無しかつ自分の責任無し』が完全に欠落してるんだよね。
棒で考えると、『親の責任有りかつ自分の責任有り』はとりあえず中間点であらわすことができるんだけど、どっちもない場合は棒も2極も消失しちゃいますよね。
でも、ありますでしょ? 実際は、そういうことって。
親も本人も全く責任がない、『ただただ時代が悪かった』とかさ。
さらに、2極の極と極に来るものは、個人の属性に紐付けられているから、その極にくる次元が存在するかどうかさえ、『人によって異なる』んだよね。
例えば、生まれた瞬間赤ちゃんポストに預けられた子は、施設で育っているときには親ガチャは存在しないんだけど、養子縁組が決まった瞬間親ガチャが発生したりする。
こんなものを好き勝手に2極において、どう一般化するっていうんでしょう?
結局のところ、親ガチャだの何だのは、個々の属性の内側の程度問題としか言えないんだよね。
個に属する程度が大きすぎるんだ。
遺伝子がー、とかも同じだよ?
今回はそんなお話。




