頑張れ問題を探る!
最近、頑張れって言葉がいけない言葉だ、みたいな風潮あるじゃないですか?
ぼくは『そんなの受け取る側の問題だろう』と思っていたのだけれど、そこで思考停止してるのもアレなので、ちょろっと考えてみました。
頑張れって言葉は、基本的には掛け声ですよね。
『掛け声』っていうのは、あたりまえだけど『考えてから発せられる言葉じゃない』んです。
つまりは、もともと内容については顧みられない、評価されないタイプの言葉なのだ。
「頑張れ」って言葉に対して拒否感を持つ人達の主張を聞いてみると、『すでに頑張っていることが評価されていない』ってところに憤ってるんですね。
ぼくに言わせれば当たり前なんだけどね。
ここで言う評価とは、必ずしも高評価って意味合いじゃなくて、そもそも『やったか、やってないか』が判定されてないって意味ね。
ここについて怒っている、と。
例えば、『あなたにぼくの頑張りのなにがわかるんだー!』っていう憤り。
或いは、『私は頑張ってるよ! ちゃんと評価してよ!』って憤り。
『できることはやってるんだよー!』っていう怨嗟。
なんで、そんな齟齬が生まれてるのか、考えてみたんだ。
それってさ、『頑張れ』って言葉が悪いんじゃなくて、『発話者と受け取り側の関係性』が悪いんだよね。
例えば、二人三脚で受験勉強をやってきた家庭教師の先生がいたとして、最初はへぼぴーだった成績が徐々に上がってきて、ついには模試で志望校のA判定を出せるようになりました。
そんなシチュエーションがあったとしよう。
そうして、苦楽をともにした先生が受験の日にいうわけです。
『これまでのお前の努力は俺が一番良く知っている。今日は結果を出すだけだ。試験頑張れ!』
わかりやすいように前半部分を付けたけどさ、単に『試験頑張れ』でもいいよ?
要は、『あなたを十分に評価してくれている人が、頑張れって言ったとしたら』どうよ?
こういう場合、頑張れのニュアンスは『グッドラック』ぐらいにまで軽減される。
もともと、ただの掛け声だからね。
要は、『頑張れ』って言葉は、発話者と受け取る側の『関係性』によって、ニュアンスに齟齬が生まれる言葉なのだ。
そんなわけで、『承認欲求が強い人ほど、頑張れって言葉が嫌い』なのかもね?




