それゆえにー(接続詞について考えたこと)
接続詞について、なんとなく考えたこと。
このエッセイの『因果と相関とAIと』で書いた『確率と統計の範囲において因果が保証される』系の因果を考えるに、結構『それゆえに』のよーな『理由の接続詞』って、あとから意味づけられているケースが多い気がします。
なんて言ったらいいのかな。
脳内では例えば因果と相関が分けられておらず、あとづけの接続詞でもって仕分けされている感じ?
つまり、『理由の接続詞』って、実際結構ニュアンス曖昧なんじゃないの? みたいな。
解釈する人次第で意味合いが変わっちゃうといいますか……。
こう、理由みたいに見えているもののうち、確率と統計の範囲で因果になるようなものって、実は話者の脳内の段階では結構曖昧なニュアンスで、読者の側で勝手に等価から因果、果ては相関まで幅広く分類してるんじゃないかなぁって。
……、伝わるかなこれ?
なにが言いたいかっていうと、Cogito, ergo sumってありますよね。
『我思う故に我あり』ってやつ。
あれ、『ゆえに』って訳すのほんとに正しいのかな? って。
主格同士を接続詞で繋いでるんですけど、文法の構造上等価(=)のニュアンスのほうがしっくり来るように思うんですよね。
『思う』と『ある』は等価であり、かつ同時に成立している。みたいな。
んー。原語は、ほんせー語か。
原語で読めばいいのだろうけれど、哲学は言い回しがめんどくさすぎて読む気がおきないんだよなぁ。




