「こなれ感」にとどまるのはもったいない
『永遠不変の真理』って、手が届かないところにあるじゃないですか?
いや、『不老不死の真理ちゃんの話』、じゃなくってさ。
それは、『どこかの分野の未踏の叡智』でもいいし、『全人類が美味しいと思う食べ物』でもいいし、『全人類が感動する芸術』でもいいし、ぼくが数回前のエッセイで書いた『現実(事実)』でもいい。
『永遠不変の真理』の実体については、個々の価値観に合わせてなんでも好きなように君が決めていいのだけれどさ。
ここで言う、『真理』とは手に入りえぬもので、どこぞの天才が定義したとしても後世に覆されたりするもののことを指すとしよう。
それを模索するのってさ。
楽しくないですか?
例えば、『永遠不変の真理』が地の底にあるものとして、ぼくらは、底に向かって掘り進んでいく。
研究者や専門家なら、素人より深く掘れるごっつい腕を持ってるかもしれないね?
ぼくにあるのは、残念ながら普通の腕だけどさ。
貧相に見える自分の腕に、コンプレックスを抱えている人もいるだろうね。
だけど、結局の所どんな腕を持っていたって、やることは同じだ。
硬い岩にあたったりして掘り進むことができなくなったポイントを掘った人は『底』と見るわけだ。
そんでね。後世、違う場所を掘ってみたら今まで掘り進めたところ以上に深く掘れるポイントが見つかったとしよう。
『底』が、真実、底であることは実際少なくって、ホントのところは検証された論文などによって、徐々に真理の底に近づいているにすぎない。
見つけ出した『底』が、『永遠不変の真理』そのものであることは、まずないと言っていい。
じゃあ、『研究者が掘った底でさえ真の底じゃないことがあるから』と言って、掘った行為に意味がないと言えるか?
真理に近づいてないと言えるか?
言えないだろう。
真理に向かって掘り進めば、途中で温泉が湧くかもしれない、原油が湧くかもしれない、たとえ真の底に至っていなくてもだ。
『掘りすすめたもの』と『指を咥えてみているもの』の間に、格差ができないとでも思っているのかい?
ぼくは、地表に留まって、掘っているものを見下そうとする輩の気がしれない。
めちゃくちゃもったいないと思うよ。
腕が細いからって掘ることを諦める理由なんてないじゃない?
意外と掘ってみたら金の鉱脈が出てくるかもしれないだろう?
少なくとも人生は豊かになるよ。何もしないよりはさ。




