多数派の中だけで支持される言葉(多様性について)
先に書いた『あだ名禁止のルール』が、少数派の中で支持される理屈であることと同じように、少数派の中だけで支持される言葉、多数派の中だけで支持される言葉というものがある。
例をあげてみよう。
『多様性』
これは多数派の中で支持される言葉だ。
発話者は、集団主義的観点から、『いまマイノリティ側にいる人も仲間に含めて多数派の範囲を広げましょう』って言ってるんだけど、これがマイノリティ側には、響かない響かない。
少数派側でそれに賛同するのは、せいぜいが『考えなし』の本物の弱者だけだぜ。
個人主義的な観点からすると、もともと見えてる世界は『個対個』だからさ。
『全種全様』なわけ。
多種多様って言うと、かえって『少数派排除前提かよ』ってふうに見えちゃう。
だから響かないし、「お前らのようなあぶれ者も仲間に入れてやりましょうよ」的なマジョリティ側の傲慢さ(上から目線)を感じてすげー冷める。
悪気がないことは、解ってるんだけどね。
そんなとき、ぼくは、集団主義的な価値観を構築して話をあわせてる。
『多様性』についてどう考えますか? ――、そうですね。今現在マイノリティ側に属してるぼくらもみんなの仲間に入れてもらえるかもしれないわけでしょ? 良いことじゃないですか、有り難いですよ、とかさ。
実際良いことではあるわけだよ。それで救われる人もいるだろうからね。嘘ではない。
まぁ、お利口さんのふりをしてるんだけど、実際はOSのうえで仮想OSを動かしてる感じなんだよ。すげー疲れるし、毎回譲歩してるみたいでうんざりする。
だって、「多様性? 少数派排除前提ですか? ぼくはそんな考え方はしません。そんな考え方で少数派を取り込めると思っているなら浅はかだし、あまり効果的じゃないと思いますよ。ぼくはその言葉から多数派の傲慢さを感じます」、なんてさすがに言えないじゃん?
だから、聞かれない限りは黙ってるよ。
ぼくがコミュ障気味なのはそんな理由。




