22 最後の、戦果
「枷は外してやろう。望むなら、この縁組み、白紙に戻すこともできるが——どうする?」
陛下のその言葉を、俺の脳は敵の奇襲と判断した。
なんて完璧な奇襲だ。詮議には勝った。証拠を並べ、疑いは晴れ、宰相は退場した。戦が勝利で終わった瞬間の、いちばん無防備なところに、あの王は矢を撃ち込んできたのだ。楽しくてたまらないという顔で。
王命は、俺たちの始まりだった。毒婦だから、残虐公爵だから、化け物同士だから釣り合うのだと言われて始まった結婚。その理由は、今確かにこの場で公式に消えた。妻はもう毒婦ではない。無実で、聡明で、美しく、可愛らしい、社交界が競って招きたがる人だ。医局が欲しがる才にあの善良な学者殿のような男が、まっすぐ賛辞を贈る人だ。
王命という枷が外れたら、彼女が俺の隣にいる理由は、どこにある?
俺は動けなくなった。彫像にでもなったほうがいっそマシな時間だ。そうだ、妻は自由で、妻の人生は選ぶべきだ。俺の望みで縛ってはならない。そう思うそばから、胸の中の何かが、嫌だ嫌だと軍規を無視して騒いでいた。
俺が口を開かないとわかり、隣の妻が先に口を開いた。
「わ……私は」
声が、震えていた。
「旦那様の、御心のままに……」
ああ、この人は、優しいから俺に選ばせようとしている。三度も裏切られた人が綺麗に頭を下げて、俺の“裏切り”を待っている。俺が「別れる」と言えば、この人はきっと完璧な礼をして、完璧に微笑んで、あの小さな荷物をまとめて出ていくのだろう。
冗談じゃない。
俺は、戦場での撤退の判断は早いほうだ。だがこの戦線だけは、駄目だ! ここを明け渡したら、俺の……俺の居場所は。
「……い、嫌だ」
「……え」
自分の声が、広間に落ちると、数百の視線が俺に集まる。妻が、目を見開いてこちらを見上げた。
「り、離縁は、しない!お、俺が、嫌だから……」
噛んだ。構わん。続けろ。
「……もう、関係ない。悪評があろうが、なかろうが……俺は……」
三語の壁が、目の前に立ちはだかった。舌が縺れ、喉が渋滞し、頭の中の文章が瓦解していく。俺は一度目を閉じ、深く息を吸った。目を開けると、妻が何かを祈るような顔で、俺を見上げていた。出会った朝、茶のカップを差し出したときと、同じ顔だ。
「ノーラ」
妻が、息を呑んだ。家族だけが呼ぶという、小さな呼び名。
「……君が、好きだ。ずっと……俺のそばに、いてくれないか」
妻の目から、ぼろぼろと涙が溢れてくる。しまった、泣かせた、と一瞬青ざめた俺の前で、妻は涙のまま花がほころぶように笑った。
「はいっ……! 私も、です。私も、あなたをお慕いしています。ずっと、言えなくて……悪評のおかげで結婚できたのに、悪評が消えたら理由も消えると思って、怖くて……」
「……俺もだ」
「え?」
「同じことを、考えていた。ずっと」
妻がぽかんと口を開け、それから、涙と笑いの混ざった声を上げた。両片想いならぬ、何と呼べばいいのか。俺たちは最初から最後まで、同じものに同じだけ怯えていた、似た者夫婦だったらしい。
「うむっ!」
玉座で陛下が、聞き慣れた謎の雄叫びを上げた。
「ようやく言いおったわ、この朴念仁ども! 余がなぜそなたらを娶せたと思うておる。化け物同士だからではないわ。……大儀であった。帰ってよし!」
広間が、歓声と笑いに揺れた。あの夜会で俺たちを化け物と呼んだ社交界が、今は祝いの拍手を送っている。現金なものだが、気分は悪くない。
俺は妻の——ノーラの手を取った。指二本分ではなく、初めて、小さな手のひら全部を包んで。
頭ふたつ分下から、菫色の瞳が笑いかけてくる。
俺の命は、この人のものだ。そしてどうやら、この人の心は、俺のものであるらしい。
これ以上の戦果を、俺は知らない。




