第四章 天使の微笑み
「今からでも…手遅れではないのなら…破談を白紙に戻していただけないでしょうか。今の私でよろしければ、喜んでお受け致します」
声が少しだけ震えている。身体の振動も微かに伝わってきていた。
「サルビアどの…」
サルビアの必死さが直に伝わってきて、一平は冷たくもぎ離せない。
普段はしたない真似をするような女性でないことはわかりきっていた。サルビアは、一世一代の決心をもってこのような行動に出たのだ。以前から考えに考えてのことではなく、一時の気持ちの高揚に任せて、というのが刹那的ではあるが、不真面目な気持ちではないということは明らかだった。
それがわかるから、どうしたらよいのか躊躇してしまう。
だが一平の言葉の響きにその逡巡を感じ取り、サルビアは言葉を継いだ。
「正妻には…誰も据えたくないと仰るのであれば…側女で構いません」
彼の妻であったパールティア姫が恋女房であったことはよく知っている。
「地位など望んではおりませんもの。ただ、アスランさまにもっとご兄弟を。あなたさまにひとりでも多くのご家族を与えて差し上げたいのですわ。私に女としての能力があるうちに…。何人でも、産んで差し上げます」
―赤ちゃんをいっぱい産むんだ―
事あるごとにそう口にしていた妻の幼い姿を思い出す。その頃は思いもしなかった。パールが『一平の』赤ちゃん限定で、そう考えていたことを。
「側女だなどと…オレには分不相応だ」
「守人のひとりともあろうお方が何を仰います!?」
「ここはそういう国ではないと思っていたが…。陛下もウート老もミカエラ師も、側室など持ってはいないではないか」
守人となって五年以上経ってはいても、一平はまだ自分の生きてきた年月の半分もトリトニアで暮らしてはいないのだ。認識不足はまだ完全には補えていない。
「陛下は、以来子を産めぬ身体となったシルヴィアさまに義理立てしておいでなのです。側室に子を設ければ王妃さまが肩身の狭い思いをなされます。ウートさまはご結婚がそもそも遅く、ミカエラさまに至ってはご正室お一人で十分過ぎるほどのお子様を産み育てられていますから」
「オレは亡き妻を忘れられないからということにしておいてもらおう。あなたに恥をかかせるようになって大変申し訳ないが…」
一平は最後まで断れなかった。
サルビアが唇を重ねてきたからだ。
円熟した女性の香りが口腔から鼻梁を通って広がる。思わず応えを返したくなるような官能的な口付けだった。
一平の股間の盛り上がりを確認してサルビアは問うた。
「こんなに…感じてくださっているのに?」
(それは…)
自分でもどうしようもない生理現象に、今一平は太刀打ちできていない。が、何とかしなければならない。心とは裏腹に、一平の男は隆起を大きくし、手は知らず二つの膨らみに伸びている。
「あなたは…美しいし、見事な身体をしている。オレでなくとも、まともな男であれば、皆こうなるだろう。だがそれは愛ゆえではない。愛のない交わりで生まれる不幸な子どもを作るのは謹んで遠慮させていただく…」
「子どもは必要ですわ。アスランさまのためにも。どんなに配慮しても、一人っ子ではどうしても得られない経験が多くなってしまいます。よりよい人間形成のためには必要欠くべからざるものと…」
「オレも一人っ子だが…」
一平の呟きにサルビアはハッとなる。
「やはり、どこか人間としてかたわだろうか。未熟とは思うが、それほど悪い人間ではないつもりだが…」
「いえ。あの…」
「兄弟が欲しいと切望したことはなかったがな。もっとも、兄弟のようにして育った従兄弟たちがいたが…」
サルビアは居心地が悪そうに顔を背けた。
「…失言…でしたわ。あなたさまはご立派です。それこそ、非の打ち所がないほど…。今のは私の心得違いだったようですわ」
「……」
それ以上追求はせず、一平は押し黙る。考え込み、先に口火を切る。
「目の保養を…させてもらった。礼と言われるのならもうこれで十分だ。どうか服を…。さもなくば…乱暴狼藉を働いてしまうやもしれぬ」
効果のない脅し文句だ、と思いつつ、サルビアは決定的な拒絶の言葉を聞いた。
「サルビアどの」
互いに背を向け、身支度をし、一平は呼び掛けた。
「はい!?」
先程よりは明らかに距離を置いた反応に、無理もないかと思いつつ一平は言う。
「オレは、こう思うのだ。人は気持ちの生き物だとな」
「気持ちの?…生き物!?」
「ああ。そうだな。『病は気から』と言うだろう!?どこも悪くないのに気持ちが落ち込むと食も進まず、目方が減ったり、悪くすれば病を併発することがままあるではないか。逆に、今にも死にそうだった重病人が、きっかけ一つで前向きになり、みるみる回復してゆくとか…。ストレスを与え続けて他人を死に追いやることすら不可能ではないのだ。いかに頑健な肉体を持っていようと、人間は気持ち次第でいかようにも変わることができる。そうは思わぬか」
「……」
サルビアにも経験がある話だ。連れ合いや子どもを亡くした時には何も喉を通らなかった。だが、一平は一体何を言いたいのか…。
「海人の能力にしてもそうだ。生まれつき、身に備わってはいても、それに磨きをかけるのは気が大きくものを言うだろう?」
「…ええ…」
怪訝に思いながらもサルビアは頷く。
「パールが、そうだった…」
「奥方さまが!?」
「生まれた時に死んでもおかしくないくらい病弱だったのに、オレとの旅の間にどんどん丈夫になった。あの癒しの力も生命力と精神力とであそこまで増大させた。原理など本人にもわからぬ。ただ、相手を治したい一心で、気の高め方を会得していったのだ。
…あいつの身体はもうこの世にはない。
だがオレは今でも感じるのだ。パールがオレのすぐそばにいることを」
「え!?」
「あいつのまなざしを。その声を。癒しの波動を」
「それは…」
「時々、強く感じる。声に答えても話しかけても返事は返ってこないが、その気は紛れもなくパールのものだ。オレにはわかる…。オレは未だに、あいつの大きな庇護の下でこの生命を生き永らえているのだ」
「パールティア姫を守ってきたのは一平さまだとうかがっていますわ」
「…人はそう言うが、実は逆だ。オレが死にかけたのは一度や二度ではない。パールがいなければ、とっくの昔にオレの身体は海の一部となっていたはずだ」
確かに姫は偉大な力を持っていたと伝えられている。
「今もおそらく…天上界とやらからオレを見ているのだろう」
そう言われて、サルビアは思わずゾッとして周囲を見回した。
急激に恥ずかしさと後悔が攻め上ってくる。
「…だから?…だから、私を受け入れてくださらないのですか?それほど…奥方さまのお怒りが怖いと?」
「そうとってもらっても構わぬが…。いや、怒りではないな。オレはパールを悲しませたくないのだ。例え霊魂であろうと」
成り行き次第ではパールは怒らないだろう。だが口に出さなくても悲しむことは確かだ。
そういう娘だった。生きている時のパールは。
いや。今もパールは生きている。一平の心と共に。
だから一平はパールが生きていたら賛成しないようなことはすまいと思っている。パールが生きていたら不幸だと思えるかどうかが、一平の判断基準になっていた。
海上では雨が降り始めていた。
一平の言葉に胸を詰まらせるパールの歓びの涙だった。
「一種のかたわだな。おまえのいい人は。とことん堅物だ」
トリトン神が呆れて、だがほっとしたように呟いた。
「あれが欠点といえば欠点だな。まことトリトニアの損失だ」
「止めなくてよいのかと仰ったではありませんか…」
泣き笑いのパールが抗議する。
「ふむ。…実を言うと、我もな。おまえの泣き顔は見たくないのだよ」
天使の微笑みがここにあった。
それに伴ってじきに下界の雨は止むだろう。そして夜明けに七色の虹がトリトニアの上空にかかる。
その下を一平とサルビアの二人が連れ立って右宮へ向かう。
パールの微笑みを身体全体で感じながら。
(トリトニアの伝説 外伝14 虹の彼方 完)
「天使の鎮魂歌」の投稿の終盤に、親しくしていた方が儚くなりました。
連れ合いである友人の哀しみはいかばかりだったのでしょうか。
この物語を執筆したのはかなり前なのですが、発表の時期が重なったことに世の不思議を感じます。
一平とパールも私にとっては二十年以上前から身近にいる家族とも言ってよいほどの存在です。
彼らの境遇がオーバーラップして、切なくなります。
願わくば、トリトン神なような存在が友人たちをまた引き合わせてくれることがありますようにと願ってやみません。
個人的なことを書き連ねました…。
次回はこの一年後の出来事をお届けします。
準備期間を少し長めにいただきます。
またお目にかかれますように。




