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第一章 天上人

この作品は「トリトニアの伝説」の外伝です。

本編でパールが死んで五年後の出来事です。


物語の背景

海人の園トリトニアで癒しの姫と呼ばれたパールティア王女は、海底火山の噴火によって苦しむ人々を立ち上がらせるため、持てる力を使い尽くして天に召された。

最愛の夫一平と、二ヶ月前に産み落とした一人息子アスランを残して。

深い悲しみの底に沈みながらも、一平は息子の育児と守人としての責務に心血を注ぐ。

アスランは現在五歳。

片親ながらも、世話係や侍従長らの協力のおかげで素直で元気に育っていた。

そして天上人となったパールは、トリトニアの守護をするトリトン神の元で休むことなく下界を見守っていた。

最愛の夫と息子に降り掛かる災難を悉く排除するべく、来世に転生するために必要なエネルギーを惜しみなく使って二人を助け、支え続けていた。


これまでの詳しい出来事は本編をお読みください。

「よいのか?パールティア」

「……」

 主の問いかけにパールティアはしばし考える。

「…私にはもう…あの方をお慰めする身体はありませんから…」

 伏し目がちに下界を見下ろす真っ青な瞳は翳りを帯びて寂しげに見えた。

「おまえ以外の誰かと身体を合わせることが、あの男にとって慰めだと、本気で思っておるのか?」

「……」

「あの男がどれほどおまえに惚れ込み、大切に思っていたか知らないおまえではあるまい」

「……」

「あの男の愛情を、肝腎のおまえが信じてやらなければあの男も報われぬぞ」

 トリトン神は問いを重ねた。


「…信じていないわけではありません。あの方は私を命を賭けて守り、愛してくださいました。私とて同様です。けれど私は、もうあの方のおそばにはいられない。あの温かい胸に抱かれて幸せな夢を見ることは決してできないのです。…男性であれば…そして海人であれば尚のこと、己の遺伝子を世に残そうと生理的な本能が働くのは当たり前のこと…。私が協力してあげられない以上、生ける誰かにその役割を担っていただかなければなりますまい!?」

「道理はその通りだがな。我はおまえの気持ちを訊いている」

 あどけなさえ残る若い姿のままに生来の気品と静かな落ち着きを備えるようになった元王女を、よくここまで成長したものよと、主は感慨深い目を向ける。



 この娘が天上人となってから早くも五年が経過していた。十ヶ月の間夫であったトリトニアの青の剣の守人一平は二十四歳、息子のアスランは五歳のやんちゃ盛りになっていた。

 海人は一般的に地上の人間より若く見えるが、半分地上人の一平は、その血のせいか性格故か、老成して見られる。地上人であれば年相応だが、海人一般よりは二、三歳は年上に見られがちだ。

 五年前よりは格段と威厳と貫禄を増した雰囲気はその役職に負うところが大きいが、依然として日々の鍛錬と努力を惜しまぬ『地道即ち成功への最短距離』を地でゆく男であった。

 おかげで武人としての腕は衰えるどころかますます磨きがかかり、到底次の守人を决める宣旨は下りそうもないと人々に囁かれている。衣類の下では鍛えられた筋肉が随所に割れ目を作り、均整のとれた大柄な身体に一層の存在感を与えている。


 今、娘からは男の背中しか見えていなかったが、腹側には、薄くなったとはいえ無数の傷跡が縦横無尽に走っているはずだ。それらがいつどのようにして付けられたものなのか、娘は逐一知っていた。

 この五年の間に、それら傷痕の勲章が数を増やすことは幸いにしてなかった。大きな戦いがなかったせいもあるし、男の立場が戦闘の最前線に身を置くものではなくなってしまったからでもある。

 青の剣の守人、武の頂点に立つ者として、常に人々を率い、まとめ、命令を出すことで任務を遂行するのが男の役割になっていた。


 また、その身に危険が及んでも、男の周りにだけ不思議な現象が起こる。直撃すると思われた巨大な竜巻が、寸前でその進路を変更したり、敵の振り下ろした剣が途中でいきなり折れてしまったり、受けた傷が瞬く間に塞がっていったり…。

 人々はそれをトリトン神の守護によるものと噂し、さすがはトリトン神に選ばれた人物だけあると感心し合った。


 当の本人は狐に摘まれている。伝説(いいつたえ)によれば、過去にそういうことが皆無だったわけではないらしいが、オスカー王にさえそういう兆候は見られない。主を差し置いて半分地上人である自分が…とは、どうしても思えない。それに、傍目にはわからない不思議な現象は本人の周りでもっと頻繁に起きていた。


 眠っていても危険が迫れば目が覚める、というのは鍛錬の結果として、旅をしている頃から身についていたが、近頃はそれがどういう危険なのか、飛び起きた瞬間にわかっていて、どういう対応をしなければならないのか瞬時に判断ができるのだ。まるで誰かが、睡眠中の彼にこれから起こることを話しかけて教えてでもいるように。


 また、起きている時には空耳が聞こえる。

 道に迷えば『こっちだよ』と正路を示し、邪な人間との会合には『気をつけて』と忠告し、アスランに大事があれば息子の様子が周囲の景色と共に映像として脳裏に浮かんできた。

 一平にはそのような能力はなかったはずだ。ここへきて急に備わったとも思えない。

 彼は密かに思っていた。これはきっとパールの仕業だと。

 耳に飛び込む空耳は、彼の誰より大事な妻の声で響いてくるのだから。

 

 パールには不思議な力があった。ひとつやふたつではない。偉大なる癒しの力の他にも、いろいろな生物の言葉がわかったり、予知夢を見たりすることができたのだ。そうして死して後も、彼には時折彼女の声が聞こえる。それに応え、問い掛けたところで反応が返ってくることはなかったが、声は確かに存在していた。

 その後の事実がそれを裏付ける。パールの霊が、守護霊よろしく一平の背後についているのだ、きっと。いつもそうしていたように、見えないまでも、感じないまでも、一平の首に腕を回して張り付いているのだと、彼は思うようになった。



 実際、その通りだった。

 偉業を成し、天に召されたパールは、トリトン神の元でずっと一平を見守っていた。危険があれば知らせ、忠告し、持てる力を使って排除した。

 海人は多かれ少なかれ、いわゆる超能力のような力を持って生まれてくる。その種類と方向性とに依って、できることは自ずと違ってくる。人はその適性の元職を選び、日々の生活を営んでいた。


 力の種類は普通は一種類、もしくは皆無である。パールのように数種類もの力を現出させるのはごく珍しい。

 また、その力は生命力と大きな相関関係にある。生きようとする気持ちが大きければ大きいほど力は増大し、また、使えば使うほど生命は消耗する。死して一旦ゼロになると再び充填が行われ、時満ちて再び生命を得て生まれることになる。


 充填の期間は一般に三年から七年だ。それ以上経ってから転生することはまず、ない。来世で再び巡り会い、添い遂げるためには、死ぬ時期が大きく離れていない方がいいのである。

 順当に行けば、あと二年もしないうちに、パールは再びポセイドニアのどこかで新生児として生まれることになるが、その時一平は今のままの身体と記憶を持つ二十六歳の青年だ。パールは七歳になっているはずのアスランの方により年が近くなってしまい、一平の恋愛対象として見るのはまず不可能になる。

 今すぐに死ねば五歳差で済むが、それでは一平の方が年下になってしまう。

 それでもよいが、人には天寿というものがある。そう都合よく生命を操作することは、いかにトリトン神と言えど許されない。当然、当の一平の知ろうはずもない。


 だからトリトン神はパールの再生を引き延ばしている。一平が天寿を全うし、生命エネルギーの充填が完了するまで、己の元に置いておこうと思っている。そうすることで、心ならずも死別しなければならなかった二人が来世で結ばれるように計らっているのだ。

 それがトリトン神の大願を成就してくれた一平とパールへの感謝の表れであり、一平との約束であった。



 一般の死者の行く世界から引き離され、トリトン神の元に呼ばれたパールはそのことを聞かされてよりずっと待ち続けている。

 することは特にない。身体がないのだから食事をする必要すらない。トリトン神と連れ合いのピピア女神と共に、ひたすら下界の様子を見守るだけだ。

 不満もない。やりたいことも特にない。意欲は基本的に空白だ。

 けれど指向はある。

 パールの眺める下界は一平の周囲ばかりだ。

 そして下界に干渉する。

 パールの死と共に失われたはずの偉大な力は天上界に移って再び蓄えられた。一平の守護神よろしく、彼を陰から助け続けた。


 一平が早く死ねば、それだけ自分と会える時が早まるのにも拘らず、パールは一平が死ぬのを見るのはいやだった。だから身に危険が迫れば囁いて知らせたし、怪我をすれば治療をした。トリトン神の元に来て神にも準ずる力を身に付けてしまったパールには、竜巻の進路を逸らし、海流の流れを変えることなど朝飯前になっていた。

 が、それは同時にパールの生命エネルギーを磨り減らすことになる。力を使えば使うほど、生前と同じに原理は働き、せっかく蓄えられたエネルギーもなかなか満たされることがない。


 トリトン神にとってこれは予想外だった。パールはもっとおとなしく、唯々諾々として下界を見守ることに徹するはずだったのだ。生命エネルギーも三年ほどで充填し、満ちたままで転生の時を静かに待つ手筈だったのである。

 トリトン神は言う。

「全くおまえの考えていることはわからぬ。あれはおまえの最愛の男だろう!?他の女に寝取られるのをそうして逐一見ていることもあるまいに」

 妻として一番辛いことではないかとトリトン神は言うのである。


「いくら言っても力を使うのをやめぬしな。使えば使うほど転生の準備が遅くなるのだぞ。…か弱く見えても芯が強いのはわかってはいたが、ここまで強情とは思わなかった」

「強情…でしょうか、私は…」

「強情と言って悪ければ意地っ張り…いや、わがまま、かな!?」

「昔はよく言われました。わがままだと…」

 殊勝にパールは肯んじる。

「自分でもそう思う時があります。特に、あの方に関しては私は自分の意向を曲げて接することはなかったような気がします」


 さもあらん、とトリトン神は頷いた。

「でも、あの方の選択はいつも正しい。決して道を誤りなどしない。だからこそ、私はあの方についてゆき、そしてトリトニアに帰れた…」

 懐古の思いが言葉の端々に滲み出る。

「だから今回も…あの方がそうしてもいいと思われたのなら…私が邪魔をするのは間違っている…」

「人は間違いを犯すものだぞ。おまえのいい人も例外ではない」

 トリトン神の諭しの言葉にもパールは首を振る。

「だとしても。間違うとしたら、私の方が圧倒的に多い。一平ちゃんは私にとって絶対です」

 言い切るパールをトリトン神は呆れて見下ろした。

 さもあらん。そうして生き抜いたのだ。この娘は。

 せめてこんな場面からは目を逸らせばいいものを、と思いながら。

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