前編
王城の大聖堂は、今日も白く眩しかった。
高い天井に描かれた聖人たちの壁画。色硝子から差し込む光が、床の大理石を虹色に染めている。誰もが膝を折り、祈りを捧げるこの場所でただ一人、わたしだけが立ったままだった。
「・・・本当に、よろしいのですか?」
司祭長の震える声が、静寂の中に落ちる。
「ええ。問題ありません」
あまりにもあっさりとした返答に、周囲がざわめいた。
当然だろう。これはただの儀式ではない。“聖女の継承”――国の加護そのものを、別の者へと移す重大な儀式なのだから。
「しかし聖女様、その力は――」
「“力”なら、誰にでも宿りますよ」
穏やかに遮ると、視線の先でエレノアがぱっと顔を輝かせた。
「ありがとう、リシェル!!私、ずっと聖女になりたかったの!!」
無邪気な笑顔。昔から何も変わらない。変わったのは、周りの評価だけだ。
「本当にいいのか?」
低く響いた声に振り返ると、王太子アルベルト殿下が腕を組んで立っていた。
整った容姿に、どこか自信に満ちた表情。
その自信の根拠が、どこから来ているのかは分からないけれど。
「ええ、殿下。聖女の座はエレノアにお譲りいたします」
そう告げると、殿下は満足げに頷いた。
「やはりな。お前ならそう言うと思っていた」
なぜか“見抜いていた”と言わんばかりの口調。
「お前は昔から、何事にも無関心で、言われた通りにしか動かない」
まぁ、聖女の力を求められて来たのだから、言われた通りにやるのは当たり前でしょう。
「その点、エレノアは違う」
殿下は誇らしげに彼女の肩を抱いた。
「彼女は民の苦しみに涙を流せる。感情のある統治こそが、これからの王国には必要だ」
「はぁ、そうですか」
思わず、曖昧な相槌が漏れる。
「聖女の力など、あくまで象徴に過ぎない。重要なのは“心”だ」
言い切った。
司祭長が顔を強張らせているのが視界の端に映る。
「結界だの浄化だの、そういったものは神官たちがなんとかするだろう。だが、民を導くのは聖女の言葉だ」
「そう、ですか」
「そうだ。だからこそ、私は彼女を選んだ」
きっぱりと断言する。
その隣で、エレノアは感動したように瞳を潤ませていた。
「殿下っ」
「安心しろ。私が支える」
頼もしく言い放つその姿は、確かに“理想の王子”に見えるのかもしれない。
表面だけを見れば。
「リシェル、お前は優秀だ。だが優秀すぎるがゆえに、人の心が分からないところがある」
続けられた言葉に、ほんの少しだけ驚いた。
「だからこそ、この決断は正しい。お前も、ようやく理解したのだろう?」
――何を?
そう問い返すことはしなかった。
代わりに、静かに頭を下げる。
「殿下のお考えの通りかもしれませんね」
そう言っておけば、すべて丸く収まる。実際、もうどうでもいいことだ。
「分かればいい」
満足そうに頷く殿下。
「では、儀式を進めろ」
軽い口調で司祭長に命じる。
まるで、日常の一手続きを進めるかのように。
儀式は滞りなく進んだ。
聖なる光が祭壇を満たし、わたしからエレノアへと“何か”が移っていく。
正確には、移せるものなどほとんどないのだけれど。
それでも、場にいる誰もがそれを“成功”だと信じて疑わない。
「これで、あなたが聖女です」
司祭長の声は、どこか掠れていた。
「はいっ!」
エレノアが強く頷く。殿下はその手を取り、満足げに微笑んだ。
「これで王国は、新たな時代へ進む」
新たな時代。
ずいぶんと、軽やかな響きだ。
ーーーーーーーーーー
儀式が終わり、わたしは静かに大聖堂を後にした。背後では祝福の声が上がっている。振り返ることはしなかった。
「ああ、そうだ」
不意に、殿下が思い出したように声をかけてくる。
「リシェル」
呼び止められ、私は足を止める。
「お前はどうする?宮廷に残ることもできるぞ。補佐役くらいなら用意してやる」
“してやる”
わずかに眉が動きそうになるのを、意識して抑えた。
「いえ、結構です」
私は振り返らずに答える。
「もともと、わたしはこの国の者ではありませんので」
「そうか?まあ、好きにしろ」
興味を失ったような声音。
「いずれにせよ、これからはエレノアが中心だ。余計な混乱は避けた方がいいからな」
――余計な、混乱。
「承知いたしました」
それだけ答えて、今度こそ歩き出す。
城門を抜ける頃には、胸の奥の感覚がほとんど消えていた。あの“流れ”が、完全に途切れている。
「思ったよりも早いですね」
思わず、そう呟く。
本来なら、もう少し猶予があるはずだったのだけれど。
「まあ、殿下のお考えでは“問題ない”のでしょうし」
私は小さく笑う。
「――お帰りを、お待ちしておりました」
不意に背後から響く、低い声。
振り向けば、黒衣の男が跪いていた。
「久しぶりですね、ルーク」
「陛下も、姫様のご帰還を心待ちにしておられます」
「ええ。ちょうど良い頃合いです」
王城を一度だけ振り返る。
白く、美しい城。
けれどその内側で、何が崩れ始めているのかを理解している者は、ほとんどいない。
「王国のことは、よろしいのですか」
ルークの問いに、少しだけ考えるふりをする。
そして、答えた。
「殿下が“問題ない”と仰っていましたから」
わずかに皮肉を込めて。
「きっと、大丈夫なのでしょう」
空は青く、どこまでも穏やかだった。
――今は、まだ。




