39 六月 喜怒哀楽を添えて味わう甘酸辛苦
わかっていたことなのに、いざ改めて言われるとキツい。後ろから頭を殴られたみたいな感覚だ。一瞬脳内が真っ白になって、何が起きたのか把握したのち、ゆっくりじわじわ効いてくる。動悸が激しくなって、喉の奥が苦くなってきた。
『実は僕、市香ちゃんが好きみたいなんだ』。
知ってたよ、わかってたよ、やっぱりそうなんだ。そっか。そっかぁ……。
影が落ちる放課後の廊下。階段前を行き交う生徒の数がだんだんと少なくなっていく頃合いに、私は京と里也の静かな話をただただ聞いていた。
「好きみたいってなんだよ」
「前から可愛いなとは思ってたんだけどね、それは僕があんまり女子と話したことないせいかなって考えてたんだよ」
「で、今さらなんで好き?」
「ええと、言うの少し恥ずかしいんだけど」
困惑気味の問いに対する、照れ混じりの明るい答えが耳に突き刺さる。
「この前の球技大会でね、市香ちゃんが男バスの人にたくさん話しかけられてて、漠然と、なんかまずいなって思ったんだ」
「あー、男バスちょいチャラいやついるもんな」
「そうそう。それに市香ちゃんが男子と話してるの珍しくて。しかも楽しそうに話してたんだよ、人見知りなのに」
尖らせた口から出る不満。里也は市香に関連することになると喜怒哀楽が豊かになる。私の前では怒や哀を見たことがないな、と遅れて知った。
「あのあとから、絵の調子も悪いし、夜眠れないし、延々と考えちゃうし。それで、僕は市香ちゃんが好きなんじゃないかなって思って、誰かに取られる前に早くなんとかしなきゃって決起したんだ」
真剣な目でぐっと拳を握る。好きなことより睡眠より相手を考える人、いいな。大事にしてくれそう。素早く動く行動力、カッコいいな。困ったことがあったらすぐ駆け付けてくれそう。
頑張り屋さんで真面目で、しかも一途。最高すぎ。なんで好きな人の一番が私じゃないんだろう。
「それで、近々告白したいんだけど、気になることがあってね」
「気になること?」
「小町、市香ちゃんって好きな人いる? 小町が一番市香ちゃんと仲良さそうだから、教えてもらってたりしないかな」
なんでこんなときに限って、私が一番になっちゃったんだろう。
里也と京の視線を浴びて、はたして私はどんな様子になっていたのか。うまく『いつも通り』をできていますように。
浅い呼吸をしながら考えを巡らす。市香の好きな人を勝手に言いふらすのはよくない。けど、市香に好きな人がいると里也に言うのも、きっとよくない。好きな人を勘違いしてしょんぼりするかもしれないから。
私は応援するだけ。そっと背中を押すだけだ。
「んー、それはわかんないけど、里也ならいけると思うよ」
「え、そうかな。市香ちゃん、僕に当たり強いときあるんだけど、嫌われてない?」
「ないない。市香は誰にでもああいう感じだから」
「そう? まぁ、一番仲良い小町が言うなら、そっか」
しばし考えて、里也が「うん」と呟いた。私たちにニコッと笑顔を見せる。
「ありがとう、頑張るよ。じゃあ僕は部活行くね」
「じゃあな」
「ばいばーい」
教室の並ぶ一般棟と美術部のある芸術棟を結ぶ連絡通路に向かう後ろ姿を眺める。すっと伸びた背筋、刈り上げられた爽やかな襟足、堂々とした足の運びに、ふと中庭を見下ろす知的な横顔。
そこに、前方から小走りでやってきたとショートボブの女子生徒が「萩原先輩!」と話しかけていた。制服のリボンの色からして一年生だ。あの子が例の後輩だろうか。
私は、猫背で髪がもさもさで常におどおどして俯きがちだったときから好きなのに、あの子のほうが里也に近い。あの子みたいにもっと積極的にいけばチャンスあったかな。
私もあの子も、いくら頑張ってももう全部あとの祭りだけど。
二人が見えなくなってからくるりと振り返れば、まだ京が立っていた。帰ってなかったんだ。
「…………」
「…………」
「帰るか」
「……ん」
特に話すこともせず、並んで歩く帰り道。夕暮れの強い日差しの下、駅までの道のりを頭の中に思い浮かべてげんなりした。電車に乗って、そのあと家までまた徒歩かぁ。遠いな。
「もうすぐ期末だけど、今回は勉強会すんの?」
「しないと思う」
「おけ」
信号を渡って、渡って、渡って。学校と駅を繋ぐ大通りのたった十分が果てしなく長い。
「…………」
「…………」
道中で目に入る町の人が眩しい。幼稚園児だか保育園児だかを乗せた自転車で走る親子。お買い物に行く途中らしき老夫婦。そして、放課後デートしてる中高生。眩しすぎて見ていられなかった。
「夏休みネズミーは行く?」
「わかんない」
「そか」
さっきから京が頑張って話を振ってくれているのに、会話を続ける元気がない。京に八つ当たりしたくないのに。自分の身勝手さに嫌気が差す。
さっさと帰ってくれたら、私も京も楽になると思うんだけどな。
次の信号を渡ればようやく駅だ。というところで、京が駅前のコンビニを指差した。
「なんか食ってく? 地味に暑いし、アイスでも」
「食欲ない」
「じゃ、俺が買うからコンビニ寄ろ」
二人でキンキンに冷やされたコンビニに入る。汗が冷えて頭が痛くなってくる。夏っぽいトロピカルゼリーや夏季限定レモンジェラートなど、新商品のスイーツも新作アイスも何一つ心躍らない。
先に外に出て待っていると、京が何か買って出てきた。
「ん」
「ん?」
「とりあえず飲んでて」
持たされたのはアイスのミルクティー。私がよく飲んでいるものだった。
空気悪いのになかなか帰らない。気まずくて帰れない? 会話をおざなりにしても話を振る。沈黙に耐えられない? 態度最悪なのに好きなものくれる。ご機嫌取り? いつにも増して優しいというか、腫れ物扱いというか、異常に気を使われているというか。
なんだか視界が滲んできた。ああもう、なんで。
「な、なんで優しくしてくるの」
「なんで?」
「……だって、これって」
私が目の前で失恋して、可哀想だから優しくしてるんじゃないの? そんなのされたら余計に惨めになる。冗談混じりのふざけた話するとか、ゲーム愛を発揮して直帰するとか、いつも通りにしていてよ、きょうくらいは。
ミルクティーを京に押し返す。顔は見れず、そむけてしまった。
「ほっといてよ、もう」
震えた声はいかにも寸前。
さっきまで我慢できた。里也にはちゃんと応援できた。頑張れ、私。弱音はおうちに帰ってから。あとちょっとの辛抱だ。頑張れ、私。泣くな、泣くな。
「ごめん」
京はしばらくして短く息を吐いたあと、ミルクティーの紙パックを受け取って、
「ごめんな、ほっとけなくて」
そのまま私の手も取った。
手首を掴んだ力を緩めて、手の甲まで包むように握り直す。一回りか二周り大きな、硬め肌は熱くて、コンビニやミルクティーの冷気でひんやりした私の肌が温められていく。
思わず顔を上げたら、ぼやけた輪郭の京と目が合った。
「好きなんだよ」
瞬きするごとに涙が頬を伝っていく。ちょっとしょっぱい。
「小町が好きだから優しくしてんの。俺のわがままでごめん」
声色が柔らかくて、でも弱々しい小さな声だった。苦笑気味の目は笑ってるはずなのにつらそうで、握ってる手の力は強くないけどほどけそうにもない。
ねえ、なんで苦しそうなの。泣くとこなんか見たくなかったから? 私だって見せたくなかったよ、京がそんな顔をするなら。
「一人にしたくないから、もう少し一緒にいさせて」
京がすっと手を引いて歩き出す。駅の改札とは違う方向へ。
ブラッドオレンジの空に、点々と浮かぶ焼きマシュマロの雲の下、駅近くの広場のベンチに座って、私たちは京が買ったアイスを食べた。
二人分に分けられ、プラスチックの容器に入ったアイスはとっくにじゅわっと溶けていて、口に入れたらすぐさま消えた。
「飲み物になってんな」
「うん」
「飲める? こぼしたら、お手拭きもらっといたから使って」
「こ、こぼさないよ」
そんな赤ちゃんみたいなことはしないから。
ベンチにもたれて足を伸ばす。アイスを吸い込みながら見上げたオレンジの空には、小さな星がやや見えるようになっていた。
特に話す言葉は出てこず、日も暮れ、アイスもすっかり飲み終えて。
家路を急ぐ人は減り、逆に夜のお出掛けを楽しむ人影が増えてきた。じめっとした嫌な蒸し暑さの中、若干の涼しい風が広場を通り抜け始める。
「そろそろ帰らね?」
京がそんなことを言ったのは、街灯がパッとついたときだった。
「もう帰るの? アイス食べただけだよ」
「暗くなってきたし、それに……まぁ、ぐずってたの泣き止んだっぽいから」
私の顔をチラッと見て、再び視線を前に戻す。ぐずってたとか泣き止んだなんて言い方はよくない。非常によくない。そんな赤ちゃんみたいなことはしないから!
「も、元々そんなに泣いてないもんね」
「そうすか? 小町さん、ぼろぼろでしたけど」
「京の目の錯覚だもんね」
「そうすか。ティッシュ買いに行くか迷ったレベルの錯覚でしたね」
そ、それは言いすぎ。むっと京を見たら、自然と目が合って、お互いふっと笑い出す。
「あんま崩れてねえのな、メイクとか」
「梅雨仕様でウォータープルーフだから」
「帰せない顔してたらどうしようかと思ったわ」
「帰れる顔なので帰りまーす」
スマホの画面で顔を確認すると、目尻がちょっぴり滲んでいるけれど問題ない程度だった。ついでにお母さんから連絡にも返信しておく。今から帰るよ、と。
改札を通るとき、空はすっかりネイビーブルーな夜色に変わっていた。通勤ラッシュとずれた、まばらに空いている電車に乗り込む。
「小町、帰れる? 家まで送ってこっか」
「や、それは大丈夫」
「ほんとに? 小町の駅、俺の定期内だけど」
「京が帰るの遅くなっちゃうでしょ」
「じゃあ、家着いたら連絡して」
送ってこっか、だって。家着いたら連絡して、だって。京にそんなことを言われたのは初めてだ。こんな優しいの……私のことが好きだからか。
言われた言葉を思い出して、私はおもむろに手で顔を覆った。
「小町? どした」
「……えーと」
好きって、本気? 真に受けていいのかどうか迷う。信用ならない好意もある。元カレと呼んでいいのかわからないあの人だって、最初は冗談の素振りなんて一切なかったはずだったのだ。私が毎回ときめいていた里也の友好的態度も、別に特別な意味ではなかったのだ。
京のことだ。普段の癖でオーバーな表現をした可能性も……?
考えていたら私の降りる駅に到着してしまった。ど、どうしよう。
「あ、あの、京。今日はありがとう、色々」
「全然」
「あのね、えっと、その…………いや、うん、なんでもないや」
頭の整理をするには、ドアが開いている時間は短すぎた。慌てて電車から降りる足は駆け気味で。
「あ、ちなみに告白なんすけど」
えっ。私はすぐさま京のほうを振り返った。
「また改めてするんで、よろしく」
閉まるドア、ガラス越しに佇む京は、ただ私をまっすぐ見ていた。
発進してまたたく間に速度を上げた電車が、風を起こして髪やスカートを揺らす。はためく髪を抑えたときには、もう京はいなくなっていた。
結局もらってしまったミルクティーにストローをさして家まで歩く帰途。夜の風は生ぬるく、とっくに冷気を失ったミルクティーもぬるくなっていた。
「…………あま」
その日は初夏にしては涼やかな夜だった。意識しなければ過ごしやすく、意識してようやく暑さを感じられるといった程度には。




