一つ、私は神と出会う
「着いた……」
私こと、芹川七々海はそこにようやくたどり着いた。
まだ寒さの残る風が吹きすさぶ四月。しかし、木々はもう春だと主張するかのように羽をはやしつつある。
身を包むのは憧れてはいなかった、薄いピンクのスカートに淡いクリーム色のブレザー。あれ可愛いよね。そんな会話が街では目立つ。
私立桜風学院。私が進学する、いや、進学した学校の名前である。
山を挟んで、都市と都市の間、奇跡的に何もない山の麓に位置するこの学院は、あることで全国的に有名な学院でもある。
その建物を見上げる。
十五年前に建てられた新築の校舎はまだ汚れもなく、新築同様に太陽の光を反射しているように見える。
私と同じような新入生が、続々と歩道を歩いていく。その足取りは軽やかで、希望に満ちている。それはきっと、私も同じだろう。
敷地を主張するように2メートルほどの塀がそびえ立っている。
都市と都市を結ぶ二車線の道路からの奇異の視線は防げはしないが、侵入することは難しそうである。男ならともかく、私には無理だ。
歩道を歩きながら、校舎の反対側に目をやる。こちらに階段で降りればグラウンドだ。敷地外にある。
その他、この近辺には何もない。少し走った先に男子寮があり、さらにその先にコンビニエンスストアが夜の十二時まで開いているだけ。田舎であるとか、そういう話でもない。本当に、ここにはこの学院しかないのだ。
時計に目を落とす。午前八時三十分。教室に九時まで入ればいいはずだ。私は久方ぶりにゆっくりと歩いた気がした。
「ふぅ」
空気も美味しい。街の喧騒も遠いどころか欠片さえない。けたたましいエンジンが唸る音もしない。
花が咲く前のつぼみが吸う空気は、人にも植物にも優しい気がした。
桜風学院に通学する手段は大まかに四つある。
一つは私のように電車通学をすることだ。すぐ近くに『学院前』という素っ気ない駅がある。一応有人である。
もう一つはバス通学。二つの都市間にあるので、電車も道路も通っている。
私が今歩いている歩道は駅までしか続いていない。学院側が作ったのだろう。さすが私立といったところか。
三つ目は寮から歩いてくること。女子寮は敷地内にあるが、男子寮は敷地外にある。男子寮の方がコンビニに近い。
四つ目は車の送迎。まあ、これは極少数だろう。こちらの道は旧道で、車の往来は少ない方だ。いまはもっと便利な道路が整備されている。
私立というからには、やはりお嬢様みたいな人間がいるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、正門についた。視界が開け、大きな建物が目に入る。
体験入学と入試でこれまでに二回訪れ、そしてようやく正式にこの門を潜れる。私はそのことに感動さえ覚えていた。
私には、この学校にどうしても入学したい理由があった。
ここから、私の本当の学校生活が――。
そう、一歩を踏み出した瞬間のことだった。
「――ん?」
視界の端に、なにか写った。
ここに、いや、この世にいてはいけないものが。
私は反射的に脚を止める。
学名が掘られた古びた木版がかかっている門の片方。
ああ、意外としっかりした門なんだな。監視カメラもある――。現実逃避はうまくいかなかった。
大きな石柱の上に、男が座って、下を眺めていた。
浴衣、いや、振袖だろうか。とにかく、今の若い男性が着ても似合わないだろう年代物のそれを完璧に着こなしている。
「……なんで……」
声が震えた。
その振動に呼応するかのように、彼がこちらを向いた。
「――っ!!」
視線を合わせてはならない。私は門の向こうの校舎を凝視する。
そして小走りに走り出す。後ろで何かが小さく笑う気配がしたが、人の気配はしなかった。
玄関前でクラス分けを素早く確認する。B組であった。それ以外を確認する余裕はなかった。どうせ知り合いなどいない。私は幸せそうにぎこちない会話をする新入生の中を、悲惨な気持ちで通り過ぎた。
教室までの道のりは、わかりやすく示されていて迷う必要はなかった。
一年間を過ごす教室に入り、名前の書かれたプレートのある席に座ると、中学で良くしていたように額を机に押しあてて目を瞑った。視界になにも入れたくなかった。
聞き慣れた雑音が耳に入る。
「どうして……!」
木の感触が私の声を吸収した。
私こと芹川七々海には、普通の人が持ち得ないような霊感を持ち合わせている。それもとても強力なものだ。
霊が見える、というのは決して楽しいことじゃない。むしろ辛い。思った以上に幽霊というのはこの世の中に蔓延っているのだ。
ゲーセン、カラオケ、マンション、病院、そして学校にも。
私の視界には、いつだって変なものが写ってきた。それだけならまだいいが、一部の幽霊は自分が見えると知ると私に付き纏うのだ。
ラップ音やポルターガイスト、こちらを嘲笑うかのような小さな不幸の連続。
彼らに関わって、録なことにあった試しがない。少なくとも、十五年間はそうだった。
だから私は、どうしてもここ、桜風学院に来たかったのだ。
どうやらここは良き学び舎である他に、不思議な場所でもあるらしいのだ。
体験入学の時に知ったのだが、この学院の敷地には幽霊がでない。
そういう場所が希にあるのだ。私もよく地元の由緒正しい神社にはよくお世話になっていた。
学園関係者に『ここって幽霊出ませんよね?』なんて確認するわけにもいかなかったけれど、私がここを受験したいという正当な理由にはなった。
受験勉強というものを必死でした。
なにせここは県外からも受験者が訪れる、全国的に人気のある学院なのだ。定員僅か百五十名。
受験の日にも当然幽霊は姿形も見えず、私は万全を期して試験と面接に応じ、そして合格した。
その時の喜びは何者にも変えられなかった。三年間限定だが、安寧の時がようやく私に訪れたのだ。
できれば寮に住みたかったが、実家が近かったので却下されてしまった。が、それは仕方ないことだった。
そうして、人生で初めて有頂天だったのだ。先程までは。
あの男性、いや、男の子だったような気がする。彼は間違いなく人外の存在だった。
まずあんなところにいる訳がない。よく見てなかったが、姿は少年のように小さかった。
こんな小さな子が、などと同情してはいけない。子供の幽霊というのは確かにあまり多くはないが、厄介さはそれに比例するように高まっていく。彼らが見える私もそうだが、普通の人でさえ懐かれるとヤバイ。何もないところから常に子供の声がすれば精神を病むだろう。見えないなら彼らはそのうち飽きてどこかへ行くかもしれないが、見える私には執拗に迫るだろう。
私とアレ、そう、もう人ではないアレ。それと私は、別の生き物だ。交わることは認められない。
私の思春期の悩みは徹頭徹尾、アレの対処に追われた。
皆が美味しいスイーツの店を探すように、私は霊が近寄れない場所を探した。見知らぬ場所にはあまり近づけず、私の行動範囲はまるで肉食獣から逃げる草食動物のよう。
華やかな場所を避け、神社や寺などを探し求めていたのだ。そして、ようやく楽園と呼べる安住の地を見つけたと思ったらこれだ。
真っ暗闇と木の匂いが私を癒そうとするが、心は一向にもやもやしたままだ。楽園だと思っていたこの場所が、ほかとなんら変わらない地獄だと知って、どっと受験の疲れが吹き出してきた
「あの……大丈夫ですか?」
急に人の声が聞こえ、私は驚いて顔を上げる。
きゃ、と可愛らしい驚きの声が上がった。目の前には、それはまあ可愛らしいお嬢様のような小柄の子が私を覗き込んでいた。どうや前の席の子らしい。
「あ、え、ええ。大丈夫」
少し声が吃る。何やってるんだ私は。まるで人に慣れていないみたいじゃないか。
脳内で響く、事実そうじゃないか、という声を無視した。
「ずっと俯いてたから……。気分悪いのかと思っちゃいました」
にへらっ、と笑うその顔はどこか幼く、裏表のないような無垢な表情。風に舞うようにふわふわした髪型は、癖っ毛と長年格闘して勝利した証のようだ。
子どもっぽいといえば確かにそうだが、良い意味で使われる稀有な例が目の前にあった。
無理くり悪い言葉にしようとするのなら、あざとい、だろうか。
「私は椎那ゆゆ。平仮名でゆゆ、です」
よろしく、と行ってから、また笑顔を見せた。名前も子供っぽい。
「よろしく。芹川七々海です」
私も笑顔で返す。
最初だけだ。最初だけ。
だって私は皆のように好きな場所に行けないし、何もない空間を意図的に怖がったりもしない。そんな私を皆奇異の目で見て、私を避けるようになる。
そう、私はそのうち、生きたまま幽霊になるのだ。
分かってはいても、笑顔で対応されるとやはりこちらの顔も綻ぶというものだ。
「ここ、入れて良かったですよね」
屈託のない笑みに誘われるように、私も笑う。
「そうね。狭き門を突破できたのは、純粋に嬉しい」
その門の向こうも、所詮現実だったのだけれど。桃源郷などはやはりありはしないのだ。
「ここ、入学式と卒業式に必ずOBかOGが来るんですよね。今年は誰が来てくれるんでしょうか?」
「ここ出身の有名人って結構いるよね」
俳優、モデル、スポーツ選手、評論家。調べれば確かにたくさんいるのだ。大抵そういう人たちはいい大学に進んでしまうので、高等学校には触れられないのだが。
「私は俳優の河城明がいいですねー。今季のドラマも主演ではないですけど、そこそこいい役で出てますし!」
イケメン若手俳優の名前があがる。人気のある人ではないけれど、実力派俳優、と括られる人物である。
「へぇ。あの人もここの出身なんだ」
「そうですよ。他にも有名な人たちがこのどこかに座っていたと思うと、少しドキドキしますよね」
何と言うか、少しミーハーな部分がある子なのかもしれない。まあ、男性俳優に興味があるお年頃といえば間違いではないけれど。私に比べたら些か熱狂的だ。
私はふ、と軽く息を吐く。そうだ、そうだな。
どうせどこへ行っても、この体質とは付き合っていかなければいけないのだ。楽園などやはりないのだ。
ならば、狭き門の先ではなく、狭き門をくぐり抜けたことを誇りに思おう。
「私はむしろあれに期待してるかな――」
テレビドラマは私もよく見る。ネットサーフィンも楽しみの一つだ。画面の向こう側には嫌なものは映らない。
「ああ、あれですか。でも、あれは俳優がですね――」
ドラマ談義はまるで現実に飽きた主婦のように続く。ゆゆの好みは、ただ若いイケメンというわけではないようだった。強いて言うなら、今をときめいている、つまりアイドルのような男が好みらしい。
周囲を見渡す余裕ができた。どうやら、このクラスには知り合いがいる人はいないようだ。というより、学年全体で知り合いがいる人は僅かだろう。皆、人との距離を測っているような空気があった。