四つ、私に春が来るⅡ
「はっ!?」
余りに生々しく、驚きに満ちた夢を見ると、こんな言葉を使って起きるのだと、起きた瞬間に思う。、
周囲を見渡すと、見慣れたアスファルトに小汚い町並みが映る。
「も、戻ってきたぁ……」
彼とのキスよりなにより、今目の前に日常があることを嬉しく思った。
アスファルトの地面は相変わらず硬いし、冷たい。
街ゆく人も皆誰もがだれもに無関心で、一様に同じ表情をして通り過ぎるけれど、人の形をしている
私の生きるべき世界に帰ってきた。私はそれを噛み締めた。
「おかえり」
上空からこれまたどこかで聞いた声がする。
ふわりと舞い降りるのは、精霊のハルだ。相変わらず可愛らしい衣装に身を包み、髪の毛がふわふわと跳ねている。
彼女はどこか不機嫌そうに、私の帰還を見つめていた。
「あ、えっと、ハル、も手伝ってくれたの?」
さん、だとか、ちゃん、付けで呼ぶのはおかしい気がした。
私はそう言いながらも、彼の姿を探した。
まだ身体の中に、違和感が残っている。これが彼の存在なのだろうか。
「まあね。ほら、さっちゃんの身体拾って。学院の桜の木まで運ぶわよ」
「えっと……」
そこには、彼が、何故かうちの学院のジャージを着て、倒れていた。
「た、大変!」
触れてみると冷たく、まるで死んでいるようだ。血色も悪い。私は彼を抱きかかえた。
「ハル、これ!大丈夫なの!?」
焦る私に、ハルは嫌そうだが悠々と答える。
「それはさっちゃんの人間だった時の身体。外に出るときの器みたいなもの。霊力を切り離したから、動けないの」
なるほど、と私は一瞬で理解する。
神が人間に干渉するというのは、なかなかに手間のかかるものだ。彼の一部になって、どことなく世界の理というものを理解、ではないが、許容することができるようになったのかもしれない。その言葉をするりと受け入れる自分がいた。
「じゃあ、今はまたあそこに?」
学院の裏にある桜の木がある場所。そこが恐らく、彼の源である。
「そういうこと。ほら、これ背負って。私たち風の精霊の力で気配と存在を薄めてるから。人には怪しまれないはず」
見た目、彼の肉体の顔色は悪いし、事実心臓は動いていない。こんな身体を普通に運んだら、何かしらの罪で警察の厄介になるだろう。ハルの配慮は実にありがたかった。
「あ、でも監視カメラとかは誤魔化せないから。弟が寝ちゃったとかの体で行くしかないわね」
「りょうかい、っと」
彼の身体は思ったより軽く、人間とは思えない感触がした。死体と同じなのだろうが、そこまで気味の悪いものではないと私は知っている。
だってこれは、私の主の身体だから。
ハルの力は思ったより凄まじく、本当に誰も私を感知していないようだった。接触さえしなければ、何をしても誰も私に気づかない。駅のホームで佇んでいても、誰も私の方を見ない。
「ハルの力では運べないの?」
何気なく問うてみる。精霊の力がこれほどのものならできるような気がした。
「私たちの力はそこまで強くないわ。まあ、暴走すれば別だけどね」
ハルの風は春を呼ぶ風。荒々しい風ではないので、重いものを運ぶとか、そういうことはできないのだという。
改札を潜り、階段を上る、監視カメラは問題がないとチェックされないだろうと信じて。
駅のホームで時計を見つけた。時間は十一時半を指していた。
「あっちゃー、大遅刻。先生になんて言おう……」
別段、寝坊でもよかったが、この話が親に回ったとき、矛盾が生じるような気がした。
「そのへんはさっちゃんが上手くやってくれるわよ」
どことなく不機嫌なハルと一緒に、学院行きの電車に乗り込む。
昼前の電車は、自分のスペースをふんだんに確保できるほど空いていた。
遠慮なく座り、となりにゆっくりと彼の身体を置く。
「ハルも、手伝ってくれてありがとう」
私が言うと、ハルはどこか不満そうな表情を見せた。確か、人間が嫌いだとか言ってたような気がする。まあ、それならそれでいいか、と思ってハルから目を離した。
「さっちゃんは、人間を気にかける」
ハルが突然口を開いた。
「それは、さっちゃんが元は人間だからだ」
そうしてハルは、彼が、神になった経緯を私に話してくれた。
彼も私のように世界を超えるほど強い霊力を持っていて。いつの間にか人間をやめて。そして、人間だった頃の全てを失ったこと。
私はただ黙って聞いていた。この体つきなら、十歳前後というところか。彼が人間でいた月日は、あまりに短い。確かに、霊体の彼は大人っぽいが、肉体を見れば全然子供である。
「だから、なんていうのかな。さっちゃんは、人間に憧れ、というわけではないけど。なんか、特別な何かを抱いてると思う。で、さっちゃんもきっと、それがなんなのかよくわかってないんだよ」
人間に抱く、特別な何か。
それはなんだろう。神になった人間の気持ちなど、私に分かるはずもない。
もしかしたら彼自身、それを理解したいのかもしれない。
「私は、人間は嫌いだ。春だ春だって騒いで、汚して。花びらだけ見て、本当に美しいものがなんなのかも理解してない」
返す言葉もない。
春だと聞いて生き物が喜ぶというが、ハメを外すのは人間だけだ。
「でも、さっちゃんは人間だった時の記憶も大切にしたいって、きっとそう思ってる。だから、あんたを助けた」
彼が私を助けたのは、実のところ彼にも大きな理由がある。
神はなんの理由もなしに、人を助けない。それはなんとなくわかる。世界がどうだとかいう話はこじつけだ。神である彼なら、後からどうとでもなる話である。
「だから、って訳じゃないけど。あんたが人間らしく生きることを、さっちゃんも望んでる、と思う」
私は唖然とした。
回りくどい話だったが、実のところ彼女は私を心配してくれたのかもしれない。
なんというか、不器用な精霊である。
「うん。私も、これからどうなるか、っていうのは、少し不安だけど。それでも、私のご主人様は神様だからね。なんとかなる、って気持ちが強いかな」
「人間は本当に従属しやすい生き物ね」
皮肉っぽいけれど、これも実は本心じゃないのかもしれない。
人間が嫌いというのは、きっと本当なのだろう。人間がいい人ばかりでないことは、私たちが一番よく知っている。
けれど、彼女は人間を嫌いきれない。優しい子なのだ。