四つ、私に春がくる
「おい」
人の声。幻聴が聞こえる。ついに正気を失ったのか。それとも死んだのかもしれない。
もう随分とこうして目を閉じていたような気がする。あれから色々な音がすぐ傍を通ったけれど、どれも目を開ける気にもならない気味の悪い音だった。
絶望に染まる、というのは簡単なことだ。目の前の世界を受け入れること。それはまさに息を吸うように私の中に入り込んできていた。
まてよ、これは罠なんじゃないか。人の声を出す化物が、ついに私を殺しに来たんじゃないだろうか。
もう殺すなら勝手に殺せばいいじゃない。私の心はもう絶望に沈んで動かない。
「おい、せっかく来てやったのになんだその態度は」
声はどこかで聞いたことのあるような声だった。それと同時に、腰を何かが軽く啄くような感触。
「え――?」
その声の覚えに、私はゆっくりと、瞳を開ける。
目の前には、ガラの悪いしゃがみ方をした、学院の土地を守っているはずの、神がいた。
彼は私の視界を遮るように私を眺めていた。
「……あ」
手を伸ばした。幻ではないと信じたかったが、同時に届くのも怖かった。
「ほら、さっさと立て。ここから出るぞ」
しかし、私の伸ばしたては思いの他早く、彼に握られた。
暖かくはなかった。けれど、私には十分な質感がそこにはあった。
「おおぅ?」
私は素早く見を起こし、彼に抱きつき、泣いた。
「う、うえぇぇ……」
思いのほか変な声が出たが、私の心はそれを気にしていられるほど平静を保ってはいなかった。
「おーおー、ま、よく発狂せずにすんだな」
彼の身体は私より遥かに小さかった。それでも、しっかりとした存在感があった。
泣き喚いていたのは数秒だった。彼が、神が来てくれたのだ。どうとでもなる。私は単純にそう思った。
「しかし、これが魔界の風景か」
彼は私の頭を撫でながら、周囲の風景を観察している。
「流石にこのあたりになると人の形をしているものも少ないか。奇天烈な姿だな」
彼は余裕たっぷりにこの世界を眺める。
「え、えっと……。ここはやっぱり……?」
多少の冷静さを取り戻し、私が尋ねる。少し身体を離したが、完全に離れるのは怖かったので、まだ密着状態だ。
「魔界だな。だが、魔界でも上の階層だ。下はもうちょっとえげつないぞ」
どうやら、魔界には更にある程度の階層に分かれているらしい。どうでもいいことだが。
「急に視界がおかしくなって、それでここに……。御守りもあるのに!」
私は内ポケットに入っている御守りを見せようとするが、そこには何もなかった。
「あ、あれ?」
戸惑う私に、彼は軽く笑う。
「今、お前の肉体は人間界にある。霊体が肉体を抜け出して魔界に迷い込んできているんだ」
ま、このままなら同化して魔界の住人になってしまうがな。
彼は実に愉快そうに笑った。
「御守りがあったのに……?」
「あれは幽界の存在を遠ざけるだけだ、神である俺を捉えるお前なら、ひょんなことで別の世界に惹かれていく可能性はあった。だが、それを見越してしまうと、人の身に余る加護を与えることになる」
なんだか、彼の言いたいことはわかるような気はするが、理解は出来ていないような違和感があった、
それを理解しているのか、彼もため息を吐く。
「正直に言えば、人間が他の世界線にふれることは、どうにもできん。行きたいと思っていなくても、本当にふとした瞬間に一線を超えてしまう。それで地獄の苦しみを味わうことになるか、気が狂って死ぬか。それとも神になるか。それはわからんがな」
とどのつまり、私が生まれてこの方、幽霊に悩まされ、そして挙げ句の果てにこんなものしか見えなくなったのも、理由も何もないというのだ。
運命、必然、才能。そんな類のものが、私を支配している。
「そんなの、理不尽だよ!私は、人間の世界で普通に生きていければそれでいいだけなの!」
私の願いは、たったそれだけ。
しかし、彼は否定する。
「他の世界を見ることが出来る奴が、平穏に暮らせるわけがない。お前の運命はきっと、ここで魔界と同化し、あの醜い蟲どもか、それとも異形の化物の餌でしかなかったんだよ」
俺に会うまではな、と彼は言う。
希望がないわけではないのだ、と彼は言う。
彼の瞳は、決して優しくなどはない。けれど、決して私を諦めない。選択肢をくれる。どうしようもない、こんな私の人生に。
彼の瞳には、相変わらず桜の花びらが舞っている。綺麗だ。単純にそう思う。
魔界の血のような赤い空の下で、それだけが私と人間界をつなぐ、最後の絆のような気がした。
「芹川七々海。お前の選択肢は二つある」
彼は、私の身体を支えることをやめる。
お前が決めろと、いつもの毅然とした態度で。
「一つは、このままここで目を瞑り、霊体が魔界に染まるのを待ってこの世界と同化し生きること」
それは不可能だ。ただの人間が、こんな場所で生きていけるわけもない。狂戦士や英雄ならまだしも、私は女子高生である。
「二つ目は?」
その選択肢にかけるしかないのだ。
彼は私の瞳を迷わず見据える。
「もう一つは、俺の神力を受け入れ、俺の下僕となることだ」
「げ、下僕……?」
そうだ、と彼は頷く。
「自覚はないだろうが、お前は今既に半分ほど魔力に染まりつつある。視覚だけでなく、ほかの感覚もこちらに慣れてきているだろう?」
私は周囲を見渡す。
確かに、じとりとしたなま臭い風の匂いを感じるし、遠くで近くで何かが蠢く音が、はっきりと聞こえるようになっているような気がした。
「今からお前が人間界に戻るためには、お前が魔力に染まらず正気を保って人間界への道を探し続けるか、俺の所有物となって俺の存在に引っ張られるかの二択だ」
前者はもう無理だからな。そう彼は言った。
そうは言われても、この世界を見て心躍らせて出口を探そうなんて、中二病の男子でさえ思わないだろう。
「えっと、下僕になる、ということは……?」
私は恐る恐る尋ねる。
「お前の存在の構成要素に俺の神力を混ぜる。力が桁違いだから、俺がお前の霊体を操ることができる訳だ。その気になれば肉体も支配できるぞ?」
ふふん、と得意げに彼は言う。
「それ、なんかデメリットあるんですか?」
また聞くと、彼は少し考える。
「うーむ、そうだな。定期的に俺の神力を補給しないと、また同じ目に遭うことになる。まあつまり、生きている以上俺との関わりを立つことはできなくなる」
無論、学院を卒業してからもな。そう彼は言う。
「だが、お前にもメリットはあるぞ。まず、俺の神力がある限り、何かあっても俺の加護で人間界に引っ張り戻せる。それに、肉体が死んでも霊体として生きることもできるぞ?」
至れり尽せりというのは、こういうことを言うのだろうか。
ちょっと可笑しくて、私はくすりと笑ってしまう。
世界がこんな有様でも、不思議と彼といると平気な気がした。
「変なことは要求されないんですね」
私が言うと、彼はよくわからんという顔をした。
「別に現時点で困っていることもないしな。じゃあ、下僕になるということでいいか?」
「なんか、もうちょっといい呼び方は無いんですか?」
彼は素っ頓狂な顔を私に見せた。
「呼び方にこだわるのか?だが、扱い的には俺が主人で、お前は下僕であることには変わりないぞ?」
確かにそうなのだろう。力の差は絶対的で、これから先、私は彼に依存して生きていくことになる。
それは確かに、奴隷とも下僕とも呼べる身分だった。
「それはわかるけど……。一々そうやって呼ばれるのも嫌だし」
今後、おい奴隷だとか、下僕だとか呼ばれるのだろうか。そんな楽しい現実が、私の中に戻ってくる。
「安心しろ。別に本当に下僕のような扱いはしないさ」
神はそう言って笑った。
華奢な体だけれど、何者に対しても動じない、まさに神の存在感。いかなる絶望も彼を決して留めることはできないのだろう。
「じゃ、さっさとこの辛気臭い風景からおさらばと行くか」
彼はどこか物見遊山な視線を周囲に向けた。
「それとももう少し猶予はあるし、魔界見学と洒落込むか?」
割と本気そうな視線だったので、私は大きく首を横に振った。彼はそれを見て小さく笑った。
「じゃ、帰るか」
彼は私から少し離れる。
「しゃがめ」
そして、そう命令した。なんだか懐かしい光景だとさえ思える。一ヶ月前、こんなことをした。
私は制服のスカートを叩き、赤錆た色の大地に膝をつく。彼の顔を見上げる。
「よし」
何をするのか、その瞬間――。
「うむっ!?」
私の唇が塞がれた。彼の唇で。
頭の中は真っ白になった。が、それで終わりではなかった。
「んんん――!?」
唇をこじ開けて、何かが、いや、舌が入ってくる。
なんだこれは。いや、これは必要なのか?
瞳で、そう必死で彼に訴える。すると、彼は私の口元でこういうのだ。
「大人しくしてろ」
そしてまた、口づけを。
唇が、またこじ開けられる。入ってくる。
舌が、ではない。彼が。彼の一部が私に入ってくる。
私は目を閉じた。視界が、思考が白く染まっていく。
奴隷とか、下僕ではないのだ。そう感じた。
包まれるような感覚。何かがひとつになる。離れていても何かを共有し合う。
私はそうして、大きな彼という存在の、一部になったのだった。




