表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/19

四つ、私に春がくる



「おい」



 人の声。幻聴が聞こえる。ついに正気を失ったのか。それとも死んだのかもしれない。



 もう随分とこうして目を閉じていたような気がする。あれから色々な音がすぐ傍を通ったけれど、どれも目を開ける気にもならない気味の悪い音だった。



 絶望に染まる、というのは簡単なことだ。目の前の世界を受け入れること。それはまさに息を吸うように私の中に入り込んできていた。



 まてよ、これは罠なんじゃないか。人の声を出す化物が、ついに私を殺しに来たんじゃないだろうか。



 もう殺すなら勝手に殺せばいいじゃない。私の心はもう絶望に沈んで動かない。



「おい、せっかく来てやったのになんだその態度は」



 声はどこかで聞いたことのあるような声だった。それと同時に、腰を何かが軽く啄くような感触。



「え――?」



 その声の覚えに、私はゆっくりと、瞳を開ける。



 目の前には、ガラの悪いしゃがみ方をした、学院の土地を守っているはずの、神がいた。



 彼は私の視界を遮るように私を眺めていた。



「……あ」



 手を伸ばした。幻ではないと信じたかったが、同時に届くのも怖かった。



「ほら、さっさと立て。ここから出るぞ」



 しかし、私の伸ばしたては思いの他早く、彼に握られた。



 暖かくはなかった。けれど、私には十分な質感がそこにはあった。



「おおぅ?」



 私は素早く見を起こし、彼に抱きつき、泣いた。



「う、うえぇぇ……」



 思いのほか変な声が出たが、私の心はそれを気にしていられるほど平静を保ってはいなかった。



「おーおー、ま、よく発狂せずにすんだな」



 彼の身体は私より遥かに小さかった。それでも、しっかりとした存在感があった。



 泣き喚いていたのは数秒だった。彼が、神が来てくれたのだ。どうとでもなる。私は単純にそう思った。



「しかし、これが魔界の風景か」



 彼は私の頭を撫でながら、周囲の風景を観察している。



「流石にこのあたりになると人の形をしているものも少ないか。奇天烈な姿だな」



 彼は余裕たっぷりにこの世界を眺める。



「え、えっと……。ここはやっぱり……?」



 多少の冷静さを取り戻し、私が尋ねる。少し身体を離したが、完全に離れるのは怖かったので、まだ密着状態だ。



「魔界だな。だが、魔界でも上の階層だ。下はもうちょっとえげつないぞ」



 どうやら、魔界には更にある程度の階層に分かれているらしい。どうでもいいことだが。



「急に視界がおかしくなって、それでここに……。御守りもあるのに!」



 私は内ポケットに入っている御守りを見せようとするが、そこには何もなかった。



「あ、あれ?」



 戸惑う私に、彼は軽く笑う。



「今、お前の肉体は人間界にある。霊体が肉体を抜け出して魔界に迷い込んできているんだ」



 ま、このままなら同化して魔界の住人になってしまうがな。



 彼は実に愉快そうに笑った。



「御守りがあったのに……?」



「あれは幽界の存在を遠ざけるだけだ、神である俺を捉えるお前なら、ひょんなことで別の世界に惹かれていく可能性はあった。だが、それを見越してしまうと、人の身に余る加護を与えることになる」



 なんだか、彼の言いたいことはわかるような気はするが、理解は出来ていないような違和感があった、



 それを理解しているのか、彼もため息を吐く。



「正直に言えば、人間が他の世界線にふれることは、どうにもできん。行きたいと思っていなくても、本当にふとした瞬間に一線を超えてしまう。それで地獄の苦しみを味わうことになるか、気が狂って死ぬか。それとも神になるか。それはわからんがな」



 とどのつまり、私が生まれてこの方、幽霊に悩まされ、そして挙げ句の果てにこんなものしか見えなくなったのも、理由も何もないというのだ。



 運命、必然、才能。そんな類のものが、私を支配している。



「そんなの、理不尽だよ!私は、人間の世界で普通に生きていければそれでいいだけなの!」



 私の願いは、たったそれだけ。



 しかし、彼は否定する。



「他の世界を見ることが出来る奴が、平穏に暮らせるわけがない。お前の運命はきっと、ここで魔界と同化し、あの醜い蟲どもか、それとも異形の化物の餌でしかなかったんだよ」



 俺に会うまではな、と彼は言う。



 希望がないわけではないのだ、と彼は言う。



 彼の瞳は、決して優しくなどはない。けれど、決して私を諦めない。選択肢をくれる。どうしようもない、こんな私の人生に。



 彼の瞳には、相変わらず桜の花びらが舞っている。綺麗だ。単純にそう思う。



 魔界の血のような赤い空の下で、それだけが私と人間界をつなぐ、最後の絆のような気がした。



「芹川七々海。お前の選択肢は二つある」



 彼は、私の身体を支えることをやめる。



 お前が決めろと、いつもの毅然とした態度で。



「一つは、このままここで目を瞑り、霊体が魔界に染まるのを待ってこの世界と同化し生きること」 



 それは不可能だ。ただの人間が、こんな場所で生きていけるわけもない。狂戦士や英雄ならまだしも、私は女子高生である。



「二つ目は?」



 その選択肢にかけるしかないのだ。



 彼は私の瞳を迷わず見据える。



「もう一つは、俺の神力を受け入れ、俺の下僕となることだ」



「げ、下僕……?」



 そうだ、と彼は頷く。



「自覚はないだろうが、お前は今既に半分ほど魔力に染まりつつある。視覚だけでなく、ほかの感覚もこちらに慣れてきているだろう?」



 私は周囲を見渡す。



 確かに、じとりとしたなま臭い風の匂いを感じるし、遠くで近くで何かが蠢く音が、はっきりと聞こえるようになっているような気がした。



「今からお前が人間界に戻るためには、お前が魔力に染まらず正気を保って人間界への道を探し続けるか、俺の所有物となって俺の存在に引っ張られるかの二択だ」



 前者はもう無理だからな。そう彼は言った。



 そうは言われても、この世界を見て心躍らせて出口を探そうなんて、中二病の男子でさえ思わないだろう。



「えっと、下僕になる、ということは……?」 



 私は恐る恐る尋ねる。



「お前の存在の構成要素に俺の神力を混ぜる。力が桁違いだから、俺がお前の霊体を操ることができる訳だ。その気になれば肉体も支配できるぞ?」



 ふふん、と得意げに彼は言う。



「それ、なんかデメリットあるんですか?」



 また聞くと、彼は少し考える。



「うーむ、そうだな。定期的に俺の神力を補給しないと、また同じ目に遭うことになる。まあつまり、生きている以上俺との関わりを立つことはできなくなる」



 無論、学院を卒業してからもな。そう彼は言う。



「だが、お前にもメリットはあるぞ。まず、俺の神力がある限り、何かあっても俺の加護で人間界に引っ張り戻せる。それに、肉体が死んでも霊体として生きることもできるぞ?」



 至れり尽せりというのは、こういうことを言うのだろうか。



 ちょっと可笑しくて、私はくすりと笑ってしまう。



 世界がこんな有様でも、不思議と彼といると平気な気がした。



「変なことは要求されないんですね」



 私が言うと、彼はよくわからんという顔をした。



「別に現時点で困っていることもないしな。じゃあ、下僕になるということでいいか?」



「なんか、もうちょっといい呼び方は無いんですか?」



 彼は素っ頓狂な顔を私に見せた。



「呼び方にこだわるのか?だが、扱い的には俺が主人で、お前は下僕であることには変わりないぞ?」



 確かにそうなのだろう。力の差は絶対的で、これから先、私は彼に依存して生きていくことになる。



 それは確かに、奴隷とも下僕とも呼べる身分だった。



「それはわかるけど……。一々そうやって呼ばれるのも嫌だし」



 今後、おい奴隷だとか、下僕だとか呼ばれるのだろうか。そんな楽しい現実が、私の中に戻ってくる。



「安心しろ。別に本当に下僕のような扱いはしないさ」



 神はそう言って笑った。



 華奢な体だけれど、何者に対しても動じない、まさに神の存在感。いかなる絶望も彼を決して留めることはできないのだろう。



「じゃ、さっさとこの辛気臭い風景からおさらばと行くか」



 彼はどこか物見遊山な視線を周囲に向けた。



「それとももう少し猶予はあるし、魔界見学と洒落込むか?」



 割と本気そうな視線だったので、私は大きく首を横に振った。彼はそれを見て小さく笑った。



「じゃ、帰るか」



 彼は私から少し離れる。



「しゃがめ」



 そして、そう命令した。なんだか懐かしい光景だとさえ思える。一ヶ月前、こんなことをした。



 私は制服のスカートを叩き、赤錆た色の大地に膝をつく。彼の顔を見上げる。



「よし」



 何をするのか、その瞬間――。



「うむっ!?」



 私の唇が塞がれた。彼の唇で。



 頭の中は真っ白になった。が、それで終わりではなかった。



「んんん――!?」



 唇をこじ開けて、何かが、いや、舌が入ってくる。



 なんだこれは。いや、これは必要なのか?



 瞳で、そう必死で彼に訴える。すると、彼は私の口元でこういうのだ。



「大人しくしてろ」



 そしてまた、口づけを。



 唇が、またこじ開けられる。入ってくる。



 舌が、ではない。彼が。彼の一部が私に入ってくる。



 私は目を閉じた。視界が、思考が白く染まっていく。



 奴隷とか、下僕ではないのだ。そう感じた。



 包まれるような感覚。何かがひとつになる。離れていても何かを共有し合う。



 私はそうして、大きな彼という存在の、一部になったのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ