人が生きるべき世界Ⅳ
「これが、俺があいつを気にする本当の理由だ」
あいつとは無論、芹川七々海である。
彼は足を組んだ。短い足が偉そうに揺れる。悲しい話をしているはずなのに、
彼に悲しみがない。それが悲しいことだとハルは思った。
「人間だけが例外的に、自己を保ちながら、他の世界の住人になりうる。そして人間が別の世界に介入すると、人間界にも影響が出る」
人間が神からの祝福なしに神になる。この有り得ない現象に、別でありながら連結する世界は歪む。
影響が一番大きいのは、全ての元になった人間界である。
「俺の場合は村が消えた。人も消えた。まあ、当時は閉鎖的な社会だったし、争いで村の一つや二つなくなることは珍しくもなかったが」
ハルは黙って聞く。彼が言いたいのは、自分が悲劇の果てに神になったということでもなく、自分の力を誇示することでもない。
これが人なら、感情も動くだろう。
両親はどうした、だとか、あの桜の木は墓なのかだとか。
事実としては、誰も知りようがない。彼も神となって長く、両親の顔を覚えていないし、あの桜の木が何を意味してあそこにあるのかも知らない。
ただ、あの桜の木の内、彼の肉体を保護できる桜の木。あれは、自分の母なのではないかと彼も内心では思っている。
電車が最初の駅に着く、目的の駅まではあと二つ。まだ彼の領域内である。
ドアが勝手に開く。
「あれはどういう仕組みなんだろうな。絡繰という奴か?」
彼は化学や科学の知識には疎い。彼だけでなく、霊体は皆そうだ。
「さっちゃん、話の続き」
ハルがたしなめると、おお、そうだな、と彼は話を元に戻す。
「芹川七々海がもし、人間界からはみ出してしまったら、俺の土地まで影響を受けるかもしれん。更に言えば、あいつは幽界に惹かれていた。もしかすると、魔界に迷い込んでいるのかもしれん。どんな影響かはわからんが、土地神としてそれは止めて然るべきだろ?」
確かに、世界のバランスを保つ神の役割であるような気がする。
「それだったら、他の神様とかから、力借りられないの?」
最もな話だ。彼が動けないのなら、他に動いる神に頼めばいい。
しかし、彼は苦笑しながら手を横に振る。
「他の神は人間が数人消えたり、地形が変わるくらいじゃ動かん。神は自然にも人にも与しない。人が蔓延ればこれを間引き、自然がのさばるようならこれを狩る。それが神の役目だ」
それは同時に、異界、魔界、幽界、人間界、精霊界、天界、神界のバランスをとることでもある。
神というのは、世界の境界が揺らぐような事象を止める役割も担っている。それゆえ、人間界に積極的な介入はしないのだが、今回は神が出張るべきものでもあった。まあ、通常なら彼らがやるのは事後処理で、芹川七々海を助けることではなく、歪んだ世界線の再構築だ。
「そういうわけで、まあ何かと気にかけてやってたわけだ。ある意味、神としての義務だな」
そう笑う彼は、ハルの知っている彼だった。
彼はキセルを取り出し、桜の花びらを種火にする。この行為は、彼の領域が出て実に有効的に働く。この肉体の活動時間を長引かせることに繋がるのだ。
「でもさ。あの女は別の世界が見えるだけで、別に他の世界に行けるわけじゃないのよね?」
ハルもなんとなく、電車の椅子に座るような体制を取る。
「今はな。だが、別の世界を見る、ということの繰り返しで霊力を得ているはずだ」
「それのどこが問題なの?」
「ハル、もしお前の視界に映るものが全て魔界のものになったら、お前はどの世界にいるんだと思う?」
「ん?魔界の景色が見えるだけで、存在は精霊界でしょ?」
「事実的にはな。だが、実際そんなことになればそうは思えんよ」
二つ目の駅を通過した。次の駅で彼らは降りる。
キセルからいい香りの霊気が漂い、エアコンの空気と混ざる。
「見るものすべてが魔界になってしまったら、魔界に生きているのと変わらん。そして魔界の霊気、まあ魔力とでも言おうか。それを見続けると、次第に魔界に霊体が引っ張られていく――かもしれん」
そこまで言って、最後のあやふやな言葉にハルはジト目を返す。
「かもしれない?」
「そうだ。あくまで可能性の話だ。だが、俺も何気なく神界まで行ったんだから、魔界に行く奴がいても不思議じゃないだろ」
一理ある、とハルは足りない頭で考えた。
「何もないなら何もないでいいさ。ただ、問題が起こる前に止めれるのなら、止めてやりたいと思っただけだ」
これを言われるとハルは何も言い返せない。
それは彼らが望んだ神としての姿と、彼が一致するからである。
電車が目的の駅に止まる。
この駅はこの都市でも混み合う駅であったが、十時過ぎのホームは流石に人気が少なかった。
「さて、行くか」
彼はどこか旅行気分のようで、それがハルは不安だった。領域を出て、もうだいぶ経っている。
「ホントーに大丈夫なの?あいつが本当に、魔界に取り込まれかけてたらちゃんと助けられるの?」
「なんだよ、いつもは人間嫌いなのにこういうときは心配するんだな」
彼は意気揚々とホームの階段を下る。鉄の建物も、石のようで違うコンクリートの感触も、彼には目新しい出来事である。
「これは知ってるぞ。自動販売機というやつだ」
彼が嬉しそうに並ぶ機械を指差す。これは学院にもある。
「はいはい、いこいこ」
ハルが彼を推し進めるという珍しい構図に、ハルも少し戸惑っていた。
その後は順調ではあったが、自動改札機に彼の肉体が引っかかり、しかし誰もいないことに周囲の人間が気味悪がった。ハルがなんとか収集をつけたが、彼女は心臓が飛び出そうなほど焦った。
「まあ、肉体を消しているわけではないからな。それにしてもセンサーというのか。なかなかにすごい技術じゃないか」
ハルは彼のはしゃぎ様についていけなくなっている。神というものは、基本的になんでもできるので何に対しても慄かない。
「この調子じゃあ、監視カメラにもバッチリだよね……」
「監視されているのか?学院にも侵入者を察知する設備があるとは聞くが」
「今の世の中はね。人は公共の場にいる限り、監視されてるの」
「なんとも凄まじい世の中だな」
通り過ぎる人の波の落ち着きのなさに、彼が嘆息する。
学院の廊下の鳴る音とは桁違いに煩く、余裕のない音が並んでいた。
「さて、少し本腰を入れるか」
「そうだね。ちょっと反応を探るよー」
ハルが同胞に協力を仰ぎ、御守りの気配を探る。
「思ったんだけど、御守りをどこかに忘れてきてたらどうするの?」
「俺は肌身離さず持っていろと確かに言った。それを怠ったのならあいつの責任だ。どうしようもない」
厳しい言葉だが、あながち間違ってはいない。つまり、何かがあってもそれを持ってさえいれば、自分が何とかするという意思表示でもあったのだ。
「おろ?案外近いよ?」
「よし、行くぞ」
しかし、彼はだぶだぶのジャージであまり早くは動けない。道が難解なこともあって、ハルの手助けがなければ駅から出る間に日が暮れていたかもしれない。
「なんだこの建造物は……。効率はわかるが美しさがない」
彼も迷路のように連なる駅構内に若干苛立っていた。ようやく出口にたどり着
いたとき、時計は十一時だった。
「お、はっけー……」
お守りの気配は、駅を出てすぐ横から発せられていた。
芹川七々海の姿もあった。が、明らかに彼女は様子がおかしかった。
地面に横たわり、まるで屍のようにピクリとも動かない。
そして、通り過ぎる人間が、誰も彼女に気づいていないのである。ハルも言葉を失った。一言で言えば、怖かったのだ。
消滅、という感覚が、彼女に流れ込んでいくようだった。
ああやって、誰にも知られず、ひっそりと、消えていくんだ。別の世界に関わるということを、彼女は改めて重く受け止めた。
「おうおう、これはまた想像通りだな」
極めて最悪の条件だというのに、彼は焦る様子もなく彼女を見つめていた。
「これ、どうして他の人間は気づかないの!?」
ハルの焦りも、彼には通じない。
「別の世界に取り込まれかけてるな。漏れ出した霊体が肉体を覆ってる。霊体が完全にあちら側へ取り込まれると、意識不明として運ばれるんじゃないか?」
その時取り込まれる霊体は、彼女の自意識と同義だ。肉体は生きているだろうけれど、二度と目を覚ますことはない。
「さっちゃん早く!何とかしないと!」
ハルが彼を急かす。表情には焦りの意が見える。
「わかったわかった。ただ、この身体から霊力が抜ける必要がある。そのあと肉体の処理はこいつとハルに任せるからな」
「え?じゃあさっちゃんが失敗したら?」
「身元不明の肉体が二つ」
彼がにやりと口元を歪める。
「ま、そんなことにはならんから安心しろ。じゃあ、あとはよろしく頼む」
そう言って、彼が肉体に止めておいた霊力が抜け出し、芹川七々海の霊力と触れ、混ざり合う。
「だいじょうぶかなー……」
待つのが苦手なハルは、ただじっと瞳をそらさずに二人の肉体を見つめていた。




