人が生きるべき世界
それは桜も散った皐月の上旬のこと。桜の花は葉桜となり、尚も人を魅了し続けている。
「今年の花もいい霊力を放っているな」
この場所に住む、名は明かせないが、土地神と呼ばれる彼は、毎年咲き、散った桜の花を集めてはキセルの種火にしている。花びらを集めるのに、ハルの力を借りているのだ。だから彼女は毎年桜が咲く季節にここに来る。
「毎年やってるけど、なにか意味あるの?」
風の精霊であるハルにとって、花びらを巻き上げる位は容易いが、彼女は彼のこの行動に懐疑的だ。
「土地神は精霊みたいに自由に動き回れないからな。暇つぶしが必要なんだよ」
土地神は、ある一定の土地のあらゆる権利を所有した神の呼称である。
彼に至っては、人間界、精霊界、天界、神界と、この桜の木を中心にした一定距離において、まさしく全知全能の存在となるのである。
「私だって好きで移動するわけじゃないんだけど」
ハルのような風の精霊は、同じ場所に長い間留まることはできない。三月下旬にこの地域を訪れ、六月の下旬にこの地を去って別の場所へ行く。
ハルはこの場所が好きだし、彼女が『さっちゃん』と呼ぶ彼の存在も好きだ。
「だが、お前は一所に留まれない質だろう?」
彼は集めた花びらを仕舞いながら笑う。それは彼女が同じ場所に居続けることを嫌うことを、彼女以上によく知っているからだが、それを彼女は知らない。
吹かない風はただの空気である。彼らは自由に漂うからこそ、風なのだ。
「じゃあ、人間を入れて、育ててるのも暇つぶし?」
ハルは風を巻き上げながら言う。
「お前、今年は何かと絡むな……」
今では少なくなったが、神の土地に人間が入り込むということは、昔は往々にしてあったことだ。それを良しとする神もいれば、そうでない神もいる。別段珍しいことではない。
あの御守りをあげたからか?と彼は訝しんだ。
あれは数多の世界を跨いで咲く桜の木の、精霊界の木の皮。幽界の存在を遠ざけるものだ。逆を言ってしまえば、魔界の侵食には耐えられない。力の格が違う。
「別に育ててるつもりはないが、まあ暇つぶしといえばそうだな」
人が入り込むことで、その土地が汚れるというのはよくある話ではある。が、ここに住む彼らは神の存在を半ばでも信じ、『自分たちが神の土地に住まわせてもらっている』感覚を忘れていない。
だからこそこの場所は、人間がいてもそれほど空気が汚れていないし、人間臭くもない。それはハルも認めているところである。
九時のチャイムが鳴る。
「人間の文明も進化したもんだ。俺には全くよくわからんがな」
複雑な細胞が入り乱れて構成された人間と異なり、霊体生命はすべからく同じ力の集合体である。
ハルは霊力の塊であり、自意識は異なるが他の精霊と身体の構成要素はほぼ同じ。
神である彼も神力の塊であり、他の神も姿形は変われど神力という単一の要素の集合体であるに過ぎない。
霊力、神力と呼称は違うが、これも単に力の大きさや質が異なるだけであり、実質的に精霊も神も身体の構成要素は同じである。それは魔界や異界の生物にも言えることである。
「あれ自然汚すんですけど。人間は勝手に共生とかなんだとか言ってるけど、今まで一度たりとも実現した試しないよ」
自然との共生というのは難しい。なぜなら、自然は人間と違い単独で生きていけるのだから。自らエネルギーを生み出生せない人間とは根本的に違う。
「そうかもしれんな。だがまあ、まだバランスを保とうと努力はしているようじゃないか」
彼はそう言って、校舎内の方角へと歩みを進める。
生徒は常にこの桜のある場所に彼が控えていると思っているようだが、事実は異なる。
「努力ねぇ。本当にしてるのかな」
ハルも彼にまとわりつく様に一緒に動く。基本的に歩いて進む彼と違い、ハルは常に中に浮いたままだ。これも彼が人間だった時の癖を強く受け継いでいるのだろう。
「ま、少なくとも、滅ぶか滅ばないかは今決めることじゃないな」
他の生物は生きていくのに必要な犠牲しか払わないが、人間は利便性を求めてより多くの自然を犠牲にしてきた。それは今も変わらない。
そのツケがいつ来るのか。自然界の逆鱗に、人間がいつ触れるのか。それはまだ先のことに思える。
「……その時は、さっちゃんも人を、その、懲らしめるの?」
ハルが不安そうな顔をしたので、彼は笑顔でその髪を撫でてやる。
「それが役割だからな」
神は人の味方ではなく、森羅万象の味方である。自然が怒りの声をあげるとき、彼もその力を振るうだろう。
「なんていうか、辛くない?」
「何がだ?」
「だって、さっちゃんも元は人間で、人間の時の記憶もあるんでしょ?それなのに、人間を、とか」
「人間やってたときより人間やめた後の方が長いからな。ハルが思うような辛さは、正直あまりない」
彼は真っ直ぐな瞳をして空を見た。
「ま、だからこんなことやってるのかもしれんな」
人への憧れ。かつて自分がそうだった存在に対しての純粋な興味が伺えた。
彼の足取りは、そのまま学院の校舎へと向かう。彼は一日に一度、この場所を訪れ教師と生徒の様子を伺う。問題がありそうなら解決の目処が立つまで見つめ、時たま手を貸してやる。本来なら神が人間界に接触することは難しいが、土地神はその土地限定で可能だ。なぜならここは人間界であり神界でもあるからだ。
当然ながら、校舎内に彼を感知できる者はいない。彼はこの土地そのものであり、霊感があるから見えるというものではない。芹川七々海は良くも悪くも特別だ。その彼女でさえ、彼が姿を少しでも隠せば、その姿を捉えることはできない。あの時、芹川七々海に彼の姿が見えたのは、彼が新入生の様子を見るために手を抜いていたからに過ぎない。
もう授業は始まっており、校内は静かだ。
見えないとはいえ、どこかの民族衣装のような姿をした二人は、校舎という背景と相容れないようである。
「人間も大変ねー。体験もなしに知識だけ埋め込まれて、それでうまくやれって言われるの」
ハルは風の精霊だけに、人の噂を聞くこともある。それが人嫌いの一要因でもある。
彼とは違い、ハルにはその風景も見慣れた光景に過ぎない。
しかし、彼はどこか楽しそうに校舎内を堂々と闊歩する。
途中、保健室による。扉を開ける必要はない。
「まだここのお茶飲んでるの?」
保健室の主、川口恵美は、今日も白衣に不似合いなボサボサの長髪をたなびかせている。
監視がないからといって大きな欠伸をするその姿は、教室にいる生徒がそのまま大きくなったようだ。無論ハルも彼女の存在を知っているし、彼が毎日ここで出される茶を飲んでいることも知っている。
「神だなんだといっても、供え物を出すのはコイツくらいだしな。それに、中々悪くないもんだぞ」
ハルはもちろん、彼も知らないだろうが、彼女はこの毎朝の一杯のために高級な茶葉を購入している。自分で飲むことはないし、他人に出したりもしない。彼だけへの供え物だ。
彼はそう言ってコップを持ち、数分前に淹れられたであろう茶をすする。
彼が手に持った瞬間、その物質も神気に包まれて人間の意識では認識できなくなる。彼が人間界の物に一時的にでも触れると、神界にあるものとみなされる。これを人間が見ることはできない。彼が手を離せばまた人間界にそれは戻る。
中のお茶は一瞬で物質から霊質へと変換され、彼の一部となる。まあ、力の一部、と言ってしまうには微々たるものだが。
「いつか毒盛られるかもよ」
ゆっくりと佇む彼に、ハルが恨めしそうに言う。
精霊は神や天使を生み出した存在だが、基本的に彼らに何かをしてあげるということができない。桜の花びらを集めるのが関の山だ。
「毒で死ぬと思われているのなら心外だな」
彼は笑って茶を飲み干す。全ての要素を霊質に変えているので、神は毒では死なない。霊体には死という概念がなく、あるのは消滅である。
保健室を出たとき、ふとした違和感を彼は感じる。何かが足りないのだ。
「……あいつが来てないのか」
彼の言葉に、すぐさまハルが答える。
「ああ、今日はあの御守りの気配無いね。休みなんじゃない?」
如何にここが神域に立つ施設だとしても、人間が無病息災で暮らせるということはない。生徒も休む時は休むし、教師だって倒れる時もある。
「……そうかもな」
しかし、彼の足は真っ直ぐに職員室へと向かっていた。
既に授業が始まっており、職員室の過半数の教師は出払っている。
「調べるのぉ?」
ハルが面倒そうな声を上げる。
「そうだな。少し引っかかる」
「さっちゃん、あの子気にかけすぎじゃない?」
「何を言う、あれ以来接触はしてないだろう」
彼は手慣れた手つきで担任教師の机を漁る。これも人間の感知の範囲外。室内に誰がいようが、彼の行動を咎めるものはいない。
彼が芹川七々海のことを気にしたのは、彼女が芹川七々海であるからではない。彼女が特別な資質の持ち主だったからに過ぎないのだが、ハルはどうやら個人に固執しているように感じているようだ。