表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
At 4 A.M.  作者: 加賀いつ子
5/6

Chapter 5

 湿った闇をかき分けて、古い型のロールスロイスが、ライトを消し、徐行に近い速度で、聖アントワーヌ通りへ入って来た。託児所の門の前に横付けすると、ロールスからは、数人の身なりの悪くない男達が、静かに降りて来た。警戒するように辺りを見回すのは総勢五人。そして、一人だけ車を降りることなく、後部座席に残った男がいたようだった。       

 彼等は、前列二人、後列三人で、後方を振り返りながら、慎重に門をくぐり、前庭を歩き始めた。   

 前列の二人が、前庭の半ば以上を進んだ、と思われた時に銃声が響き、一人が倒れた。テレーズが茂みの陰から撃ったのだ。

 その刹那、男達は口々に中国語でわめき出し、あちこちに銃を乱射し始めた。テレーズは素早く移動しながら、もう一人撃った。ジョニーも後に続き移動したが、早くも至近距離まで近付いた男の放った弾丸が肩をかすめ、一瞬動きを止めてしまった。が、慌てて身を倒し、転がる事で二発目をかわす。テレーズが、三人目を撃ち殺したと同時に、ジョニーもようやく一人倒した。残る一人は、全速力でロールスに向かっている。中にいる人物を護る義務があるのだろう。       

 テレーズは、アスリートのような速さで駆け出し、ある地点から男の背中を狙い、正確に撃ち抜いた。あっという間の出来事。10分もかからずに片付けてしまったテレーズの腕前は、尋常ではない。ロールスに向かって、銃を向けたテレーズは、ゆっくりと近付いて行った。しかし、もう一人の尋常ならざる者の声が、響き渡った。

 「その人を殺さないで。」

 ロージィが立っていた。髪を高く結い上げ、淡い薔薇色の絹のアオザイを着て、どこか夢遊病患者のような足どりで歩いて来た。

 「マスール、ジョニー。」

 ロージィは、二人に呼びかけると、華奢な体をぐっと反らし、堂々とした態度でテレーズとジョニーをしばらく見つめ、次に深々とお辞儀をした。

 テレーズは、銃口をゆっくりと下げた。が、険しい表情でロールスの中の男とロージィを交互に見つめていた。        

 行かなければならない―そういう意味の事を土地の言葉で言うと、ロージィは大人びた動作でロールスに乗り込んだ。そして、中にいる顔色の悪い若い男をあやすように、何事かささやくと、窓を開けた。

 テレーズは、窓に飛びつくと、怒りを押し殺した声で言った。

 「誰のため?あの、くそったれの親類縁者の犠牲になるつもり!?」

 ロージィは、窓から微笑んだ。あどけない笑みだった。

 「あたしのためでもあるの。」

 ロージィは、首をジョニーの方へめぐらせた。二人の視線が、合った。

 ロージィの黒い瞳は、何かを伝えているような気がした。解読不可能な謎。

 教えてくれ、ロージィ。何が言いたいんだ、どこへ行きたいんだ、おれはどうすればいい?

 ロールスのエンジンが、かかった。窓が閉じられ、静かに動き出し、暁の彼方に向かって走り去った。

 紛れも無い深い喪失。生涯つきまとうであろう痛手。立ち尽くしたまま、石のように動かないジョニーを、テレーズは何とか修道院まで引っ張って行った。そして、告げた。出来るだけ早く、この国を出た方がよい、と。



 戦局は、いよいよ、きな臭くなってきた。

 あれからジョニーは、さしたる用もないのに、暇が出来ると修道院に寄り、テレーズを探したが多忙らしく、いない事の方が多かった。        

 首都であるこの街への包囲網は、ほぼ完成したとの噂でもちきりだった。そして、噂が事実だったことを裏付けるように、陥落した郊外の街の惨劇が比較的信頼できる筋から流出し、首都はちょっとしたパニック状態に陥った。今日明日にも、首都への爆撃が行われるかもしれない、と国営放送はヒステリックに伝えていた。

 ほとんど食事もとらず、廃人のようにぼんやりと座っているジョニーのアパートに、テレーズがやって来た。     

 「これだけ戦況が酷い事になると、中国人シノワも報復どころじゃないみたい。かえって助かったわ。」

 そう言うと、しゃがんでジョニーの顔をのぞきこんだ。

 「今ならまだ、航空券が取れるわよ。それくらいのお金、あるんでしょう。」  

 「…君は、帰国命令が出ていないのか。」

 「まだ、やる事が残っているの。」

 「ロージィについて、何かわかった事は?」

 「調査中よ。」

 そっけなく返すと、テレーズは出て行った。

 翌日、修道院へ行ってみると、聖堂から廊下にいたるまで避難民で溢れており、阿鼻叫喚とまではゆかなくとも、それに近い状態であった。怪我人も多くみられ、血と汗と消毒薬の匂いが充満する中、修道女達は黙々と働いていた。

 ジョニーは、否応なしに手伝う羽目になり、湯を沸かしたり患者を運んだりと忙しい思いをした。

 作業が一段落したところで、ジョニーは託児所へ行ってみた。庭の茂みの中に隠したホンダ―火事場泥棒の戦利品は、奇跡的に、誰にも見つかることなく残っていた。エンジンも、ちゃんとかかるので、ジョニーは金を取りにアパートへと走らせた。

 街の中心部は、いつもにまして渋滞していた。強い陽射しの下、車間をたくみに縫って突き進むシクロやモーターバイクに混じって走り続け、下町の安アパートにたどり着いたジョニーは、わずかばかりの身の回り品を、ほとんど放棄する気になった。隠しておいたドルとパスポートを身につけると、もはや鍵はかけずに外へ出た。どうせ大家は、海外へ出国しているに違いない。 ほんの数十分のあいだに、ホンダは盗まれていた。ジョニーは、これといって行くあてもないままに歩き始めた。

 駅前広場を通り過ぎたところで、上空いっぱいに金属音が広がった。聞き慣れた、いやな音である。

 ロケット砲弾がくる、と考えると同時に、ジョニーの体は逃げ場を求めて走り出していた。間もなく、大統領官邸の方角で爆音が響き渡り、道路はたちまち大混乱に陥った。人々は叫び、わめき、泣いたり怒ったりしながら、反対方向へ逃げまどい始めた。だが、あらたな戦闘機が、ジョニー達の進む方向めがけて突っ込んでくる。

 二度目の爆音が起こった。

 今度は、うんと近い。数百メートル程度しか離れていないだろう。群集に押し潰されそうになりながら、ジョニーはかろうじて手近なカフェに飛び込んだが、後から後から人々がなだれ込み、瞬時に満杯になった。その中に、テレーズとクロード、そして見知らぬ白人の男がいた。CIAの同僚かもしれない。

 クロードには、かなり痛めつけられた跡があった。立っているのも辛そうに見える。ジョニーが、テレーズに目で問うと、クロードに向けて顎をしゃくり、

 「ロージィの居所を知ってたわ。」

 と、吐き捨てるように答えた。

 「危ないわ。あの子、爆撃に遭ったかもしれない。」

 「どういうことだ。」

 「パストゥール通りとコンリ通りの間が爆撃に遭った。ロージィは今日、楊の息子と『ボナパルト』で昼食をしていたらしいの。」

 テレーズは、唇を噛んだ。ジョニーは一瞬、不謹慎にも、テレーズの真紅の唇に見入った。聞きたくない事を聞かされて、心が現実を認める事を拒否したのかもしれない。

 「あきらめろ、テレーズ。救出はおろか、我々だってどうなるかわからない。」

 エージェントらしき男は、しきりに汗をぬぐいながら苛々と、それでもどこかテレーズの機嫌を取るような調子で言った。

 戦闘機の音は、まだ止まなかった。それどころか、散発的ではあるが、自動小銃の音すら耳に飛び込んできた。耐え難い、蒸し風呂のような暑さと恐怖心で充満したカフェの中の人々を掻き分けて、ジョニーは外へ出ようと出口へ押し進んだ。

 「おい、正気か!?死んじまうぞ!」

 誰かが叫んだが、お構いなしに外へ出ると、ジョニーはコンリ通り目がけて、走り出した。

 ジィアロン通りを横切り、『ボナパルト』の近くまでやって来た時には、爆撃の危機は治まっていた。しかし、あたり一面瓦礫の山で、硝煙と肉の焦げる悪臭と悲鳴が、炎天下の地獄絵図を描いていた。

 ジョニーはロージィを探した。

 累々たる死体の群れもあれば、瀕死の人間達も、とにかく予想をはるかに上回る惨状だった。

が、ジョニーは一時的に感覚が麻痺を起こしたかのように、何者にも心を動かすことなく、憑かれたようにロージィの姿だけを探し求めた。      大量のガラスの破片を踏みつけながら、汗の滴をたらし、次第に息が切れてきた頃、数メートル先に、小さな白い蓮の花のようなものをみとめた。ジョニーは近寄り、しばしそれを見つめた。それから、かがんでそっと慎重に両手で拾い上げた。

 ロージィの首だった。

 瞳は閉じられている。唇には、あるかなきかの微笑が浮かんでいるように見えるのは、思いすごしだろうか。

 ジョニーは、聖遺物を捧げ持つようにして首を抱え、身体を探した。

 身体はすぐに見つかった。真珠色の上品なドレスに包まれた、見覚えのある、華奢だが強靭さを秘めた少女の身体。

 ジョニーは、身体のそばに首をそっと置いた。

許される事なら、首だけでも持って帰りたい、と切実に思った。

しかし、どこへ持って帰るのか。

 結局、遺体の処理は政府の仕事だ。政府がまだ機能すれば、の話だが。ジョニーはそれでも、政府、軍隊、いずれにせよ現場処理のための一団がやって来るまでは、ロージィのそばについていてやる事に決めた。ジョニーだけでもない。自分と関わりのある人間を心配して、危険をかえりみずに飛んできた者達も、ちらほらと現れ始めていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ