第32話「間に合わなかった放課後」
夏目は、白石に言った。
「ごめん。しばらく用事で、遊べなくなる」
白石は、一瞬だけ目を見開いた。
でも、すぐに笑った。
「そっか」
理由は聞かなかった。
聞いてはいけない気がしたから。
「また、キャッチボールしようね」
「……ああ」
それだけで、会話は終わった。
それから、夏目は放課後に公園へ行くようになった。
誰もいない時間。
夕方と夜の境目。
ボールを投げる。
拾う。
また投げる。
指を、リリースの直前で強く引っ掛ける。
最初は、ただ速いだけだった。
回転が、安定しない。
軌道が、暴れる。
それでも、やめなかった。
腕が重くなっても。
指が擦れて痛んでも。
頭の中にあるのは、一つだけ。
――驚かせたい。
白石を。
「すげえな」って言わせたい。
自分は、あのアニメみたいなことができる。
現実でも、できる。
それを、見せたかった。
その頃。
白石は、一人で帰ることが増えていた。
校庭の端。
いつものベンチ。
誰も、来ない。
「最近、ヒーロー来ないな」
背後で、そんな声が聞こえた。
振り返ると、同級生が数人、立っている。
「忙しいんじゃね?」
「もう遊ばねーだろ」
笑い声。
白石は、何も言わなかった。
言えば、もっと面倒になることを知っていた。
公園。
夏目のボールは、少しずつ変わっていった。
渦を巻くような回転。
空気を切る音が、違う。
「……これだ」
ある一球が、
明らかに今までと違う軌道を描いた。
伸びて、少し落ちる。
ほとんど減速しない。
真っ直ぐなのに、真っ直ぐじゃない。
夏目は、息を呑んだ。
――できた。
このフォームだ。
この感覚だ。
確信があった。
何度も投げた。
再現できる。
その日は、夜遅くまで帰らなかった。
翌日。
白石は、廊下で呼び止められた。
「なあ」
腕を掴まれる。
「お前さ」
「最近、一人だよな」
声が、低い。
白石は、振りほどこうとした。
「やめて」
「ヒーローは?」
その言葉に、体が固まる。
「来ないんだろ」
「捨てられたんじゃね?」
笑い声。
白石は、何も言えなかった。
否定できなかった。
その日も、夏目は公園にいた。
投げる。
決まる。
回転が、完璧に近づいていく。
「……よし」
次は、白石に見せる。
そう思った。
数日後。
夏目は、意気揚々と白石の家へ向かった。
グローブを持って。
何度も磨いたボールを持って。
頭の中では、
白石が驚く顔をしている。
「なにこれ!」
「すげえ!」
その想像だけで、足が軽かった。
でも。
家の角を曲がった瞬間、
空気が変わった。
赤いランプ。
白と赤の車。
人だかり。
聞こえてくる声。
「……亡くなったらしい」
「いじめだって」
「障害のある子だったって……」
夏目は、立ち止まった。
誰の話か、考える必要はなかった。
胸が、ぎゅっと縮む。
「家の子と、よく遊んでた大きい子がいたらしい」
「でも最近、来てなかったんだって」
その言葉が、
頭の中で反響する。
――来てなかった。
夏目の視界が、歪んだ。
手の中のグローブが、
やけに重い。
足が、動かない。
誰かが泣いている声が聞こえる。
救急車の扉が閉まる音。
夏目は、その場に立ち尽くしたまま、
何もできなかった。
驚かせるはずだった。
笑わせるはずだった。
なのに。
自分は、ここにいなかった。
その事実だけが、
頭の中で何度も繰り返される。
――俺が、いなかった。
しばらくして、人だかりが少しずつ散り始めた。
夏目は、誰にも気づかれないように家の前へ近づいた。
インターホンには、触れなかった。
ドアの前に立ち、しばらく動けずにいた。
グローブを見下ろす。
左利き用。
何度も、自分の手に馴染ませてきた形。
指の癖。
捕るたび、投げるたびに、少しずつ柔らかくなった革。
――白石に見せるはずだったもの。
それを、そっと地面に置いた。
置いた瞬間、指先が震えた。
謝る言葉も、呼ぶ声も、
もう出てこなかった。
夏目は、振り返らなかった。
その瞬間。
夏目孝太郎の中で、
何かが、音もなく折れた。
野球じゃない。
夢でもない。
自分が「自分でいる理由」そのものが。




