第26話「約束の正体」
チャイムの音が消えてから、少し間があった。
扉の向こうで、足音がする。
重くも軽くもない、ゆっくりした足取り。
鍵が回り、ドアが開いた。
現れたのは、年配の女性だった。
伊藤の母親より少し上だろうか。
白髪混じりの髪をきちんとまとめ、表情は穏やかだった。
「……はい」
伊藤は一歩前に出る。
「突然すみません。伊藤玲奈と申します。
九年前の……白石さんの件で、少しお話を伺えませんか」
女性の視線が、伊藤の後ろへ動く。
そこに立つ夏目を、じっと見た。
ほんの一瞬。
でも、その沈黙には重さがあった。
「……孝太郎くん、よね」
伊藤の胸が強く鳴った。
夏目は、答えなかった。
驚いた様子も、否定する様子もない。
ただ、その場に立っている。
女性は、ゆっくりと息を吐いた。
「久しぶりね……大きくなったわ」
扉が、もう少し開く。
「立ち話も何だし。中、入って」
リビングは、静かだった。
生活感はあるが、物が少ない。
写真立てがいくつか置かれているが、どれも伏せられている。
伊藤はソファに座り、背筋を伸ばした。
夏目は、少し遅れて腰を下ろす。
女性は、二人の前にお茶を置いた。
「……どこまで、知ってるの?」
唐突な問いだった。
伊藤は、正直に答える。
「事故として記録されていることと、亡くなった時期だけです。それ以上は、何も」
女性は、小さく笑った。
「そう。そうよね。みんな、そう」
指先で湯呑みを撫でながら、言葉を続ける。
「事故、ってことになってる。でもね……本当は違う」
伊藤は、何も言わない。
遮らない。
ただ、聞く。
「うちの子、あの頃……学校で、ひどくいじめられてたの」
声は、驚くほど落ち着いていた。
泣き声も、震えもない。
「先生に相談しても、“様子を見ましょう”ばっかり。子ども同士のことだから、って」
一度、間を置く。
「……最後の日も、学校から帰ってきて、部屋にこもったままだった」
伊藤は、喉が乾くのを感じた。
「その頃、よく公園で……」
女性の視線が、窓の外へ向く。
「あの公園で、待ち合わせしてたの。孝太郎くんと」
空気が、はっきり変わった。
夏目の肩が、わずかに揺れる。
「……俺は」
声が、遅れて出た。
「俺は……知らない」
女性は、首を横に振らなかった。
否定もしなかった。
「そうね。あなたは、覚えてないもの」
伊藤は、思わず拳を握る。
「でもね、あの子は言ってたの」
女性は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「“孝太郎がいるから大丈夫”って。
“一緒に野球やってるから”って」
伊藤の背中に、冷たい汗が流れた。
野球。
公園。
九年前。
全部、繋がる。
「……あの子、あなたのこと、すごく好きだった」
女性の声が、少しだけ柔らぐ。
「友達っていうより……希望みたいな存在だったのかもしれないわね」
沈黙。
伊藤は、横を見る。
夏目は、俯いていた。
でも、完全に空白の顔じゃない。
眉が寄り、呼吸が乱れている。
何かが、確実に触れている。
「……俺」
かすれた声。
「俺、野球……やってたのか?」
女性は、はっきり頷いた。
「やってたわ。グローブも、あなたが持ってきたものだった」
その瞬間。
夏目の指が、膝の上で強く握られた。
「……あ」
短い声。
伊藤は、息を呑む。
夏目の視線が、宙を彷徨う。
「公園で……投げてた気がする」
言葉が、途切れ途切れになる。
「誰かが……
俺に、“甲子園に行こう”って……」
主語が、まだ曖昧だ。
でも、それでいい。
今は、戻り始めている。
女性は、そっと言った。
「それは……あの子よ」
伊藤は、立ち上がった。
「今日は、ここまでにします」
女性を見る。
「これ以上、無理に思い出させるつもりはありません。でも……本当に、ありがとうございました」
深く、頭を下げる。
女性は、少し寂しそうに微笑んだ。
「こちらこそ。話せて、よかったわ」
外に出ると、夕方の風が強かった。
しばらく、二人とも歩かなかった。
やがて、伊藤が言う。
「……今日は、十分よ」
夏目は、ゆっくり頷く。
「……ああ」
歩き出す。
数歩進んでから、夏目がぽつりと零した。
「俺……
その子の夢を、借りてたのかもしれない」
伊藤は、即座に否定しなかった。
「借りてたなら、返せばいい」
「……返したら?」
「その先で、選び直せばいい」
夏目は、少し考えてから言った。
「……投げたい気は、ある」
それだけで、十分だった。
伊藤は、確信する。
野球部に戻す理由は、もうある。
それは“結果”でも“期待”でもない。
——約束だ。
誰かと交わした、まだ言葉にならない約束。
伊藤は、隣を歩く夏目の背中を見ながら、静かに決めていた。
次は、グラウンドだ。
でも、以前とは違う。
今度は――
彼自身の足で、戻らせる。




