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ステータスALL Sの受験生が170キロで高校野球を終わらせた件  作者: 白峰レイ
第2章 大学編

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第21話「知らない過去」

二度目に夏目の家を訪れたとき、伊藤は少しだけ緊張していた。


理由ははっきりしている。

今日は“様子を見に来た”だけではない。


インターホンを押すと、すぐに足音がして、勢いよく扉が開いた。


「あら、伊藤さん! 今日もありがとうねぇ」


母親は、前と同じ調子で笑っている。

声も表情も、驚くほど明るい。


「いえ、こちらこそ……お邪魔します」


「どうぞどうぞ。暑かったでしょう?」


そう言いながら、迷いなくスリッパを差し出してくる。

深刻な話が始まる気配は、どこにもない。


居間に通されると、テーブルにはすでにお茶とお菓子が用意されていた。

前回よりも少し豪華な気がするのは、気のせいではないだろう。


「孝太郎? 部屋にいるわよ」


母親はそう言って、まるで“今日は家に友達が来ている”くらいの軽さで続けた。


「最近はね、ずっと家にいるの。野球はお休み中だから」


「……そうなんですね」


伊藤は曖昧に頷く。


“休部”という言葉は、ここでは使われていない。

使う必要もない、という空気だった。


「昔からね、無理すると黙っちゃう子だから」


母親は湯のみを置きながら、どこか懐かしそうに言う。


「真面目でしょ? あの子」


その言葉に、伊藤は胸の奥で小さく頷いた。


真面目。

だからこそ、壊れるまで止まれなかった。


そんな思いは、口には出さない。


しばらく世間話が続く。

大学のこと。

天気のこと。

最近のニュース。


その流れで、母親はふと思い出したように言った。


「そうそう。孝太郎ね、小さい頃は本当に元気で」


話しながら、棚の奥からアルバムを引っ張り出してくる。


「ほら、これ」


ぱらり、とページが開かれる。


「これ、小さい頃の孝太郎。可愛いでしょう?」


写真の中の少年は、今の夏目からは想像できないくらい表情が豊かだった。

笑っている。

跳ねている。

何かに夢中になっている。


「昔はね、運動も勉強も何でもできて」


母親は楽しそうに続ける。


「主人とね、将来はスポーツ選手かしら、なんて話してたのよ」


伊藤の指が、無意識にアルバムの端をなぞる。


「……でも、夏目くん」


少し言葉を選びながら、聞く。


「高校の時、運動がずっと苦手だって言ってました」


母親は、きょとんとした顔をした。


「あら、そうなの?」


一瞬考えてから、首を傾げる。


「ええと……確かにね。中学に入る前だったかしら」


記憶を辿るように、天井を見る。


「急に勉強ばっかりするようになってねぇ。

それから、運動はあんまりしなくなった気がするわ」


“気がする”。


その曖昧さが、伊藤の胸をざらつかせる。


ページをめくる。


次の写真。

部屋でふざけている夏目。


伊藤は、そこで目を止めた。


ベッドの上。

写真の端に、小さなグローブが写っている。


「……これ」


思わず声が漏れた。


母親も覗き込む。


「あら、ほんと。グローブね」


少し驚いた顔をして、すぐに笑う。


「でも、買ってあげた覚えはないわねぇ」


「……もらった、とか?」


「どうかしら。親戚かしらね」


深く考える様子はない。


伊藤は、写真と母親の顔を交互に見る。


活発だった幼少期。

突然、運動をやめた時期。

記憶にないグローブ。


そこに“何か”がある気がした。


奥から、足音がした。


「……何してる」


夏目が居間に顔を出す。


「伊藤さんが来てくれてるのよ」


「……ああ」


アルバムを覗き込む夏目の表情は、静かだった。


懐かしそうでもない。

驚きもしない。


ただ、見ている。


伊藤は、その横顔を見て、はっきりと理解する。


(……覚えてない)


自分の過去を。

自分が何をしていたかを。


母親は、気づかない。

父親も、気づかない。


ここで気づいているのは、自分だけだ。


居間には、変わらず穏やかな空気が流れている。

それが、逆に息苦しい。


伊藤は、アルバムをそっと閉じた。


胸の奥で、何かが確実に決まる。


――これは、野球の問題じゃない。

――一人で抱えさせていい話でもない。


そして何より。


この子は、助けを求める言葉を、もう持っていない。

 

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