第21話「知らない過去」
二度目に夏目の家を訪れたとき、伊藤は少しだけ緊張していた。
理由ははっきりしている。
今日は“様子を見に来た”だけではない。
インターホンを押すと、すぐに足音がして、勢いよく扉が開いた。
「あら、伊藤さん! 今日もありがとうねぇ」
母親は、前と同じ調子で笑っている。
声も表情も、驚くほど明るい。
「いえ、こちらこそ……お邪魔します」
「どうぞどうぞ。暑かったでしょう?」
そう言いながら、迷いなくスリッパを差し出してくる。
深刻な話が始まる気配は、どこにもない。
居間に通されると、テーブルにはすでにお茶とお菓子が用意されていた。
前回よりも少し豪華な気がするのは、気のせいではないだろう。
「孝太郎? 部屋にいるわよ」
母親はそう言って、まるで“今日は家に友達が来ている”くらいの軽さで続けた。
「最近はね、ずっと家にいるの。野球はお休み中だから」
「……そうなんですね」
伊藤は曖昧に頷く。
“休部”という言葉は、ここでは使われていない。
使う必要もない、という空気だった。
「昔からね、無理すると黙っちゃう子だから」
母親は湯のみを置きながら、どこか懐かしそうに言う。
「真面目でしょ? あの子」
その言葉に、伊藤は胸の奥で小さく頷いた。
真面目。
だからこそ、壊れるまで止まれなかった。
そんな思いは、口には出さない。
しばらく世間話が続く。
大学のこと。
天気のこと。
最近のニュース。
その流れで、母親はふと思い出したように言った。
「そうそう。孝太郎ね、小さい頃は本当に元気で」
話しながら、棚の奥からアルバムを引っ張り出してくる。
「ほら、これ」
ぱらり、とページが開かれる。
「これ、小さい頃の孝太郎。可愛いでしょう?」
写真の中の少年は、今の夏目からは想像できないくらい表情が豊かだった。
笑っている。
跳ねている。
何かに夢中になっている。
「昔はね、運動も勉強も何でもできて」
母親は楽しそうに続ける。
「主人とね、将来はスポーツ選手かしら、なんて話してたのよ」
伊藤の指が、無意識にアルバムの端をなぞる。
「……でも、夏目くん」
少し言葉を選びながら、聞く。
「高校の時、運動がずっと苦手だって言ってました」
母親は、きょとんとした顔をした。
「あら、そうなの?」
一瞬考えてから、首を傾げる。
「ええと……確かにね。中学に入る前だったかしら」
記憶を辿るように、天井を見る。
「急に勉強ばっかりするようになってねぇ。
それから、運動はあんまりしなくなった気がするわ」
“気がする”。
その曖昧さが、伊藤の胸をざらつかせる。
ページをめくる。
次の写真。
部屋でふざけている夏目。
伊藤は、そこで目を止めた。
ベッドの上。
写真の端に、小さなグローブが写っている。
「……これ」
思わず声が漏れた。
母親も覗き込む。
「あら、ほんと。グローブね」
少し驚いた顔をして、すぐに笑う。
「でも、買ってあげた覚えはないわねぇ」
「……もらった、とか?」
「どうかしら。親戚かしらね」
深く考える様子はない。
伊藤は、写真と母親の顔を交互に見る。
活発だった幼少期。
突然、運動をやめた時期。
記憶にないグローブ。
そこに“何か”がある気がした。
奥から、足音がした。
「……何してる」
夏目が居間に顔を出す。
「伊藤さんが来てくれてるのよ」
「……ああ」
アルバムを覗き込む夏目の表情は、静かだった。
懐かしそうでもない。
驚きもしない。
ただ、見ている。
伊藤は、その横顔を見て、はっきりと理解する。
(……覚えてない)
自分の過去を。
自分が何をしていたかを。
母親は、気づかない。
父親も、気づかない。
ここで気づいているのは、自分だけだ。
居間には、変わらず穏やかな空気が流れている。
それが、逆に息苦しい。
伊藤は、アルバムをそっと閉じた。
胸の奥で、何かが確実に決まる。
――これは、野球の問題じゃない。
――一人で抱えさせていい話でもない。
そして何より。
この子は、助けを求める言葉を、もう持っていない。




