表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステータスALL Sの受験生が170キロで高校野球を終わらせた件  作者: 白峰レイ
第2章 大学編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
86/176

第20話「隣に立つ資格」

休部に入ってからの数日間。

伊藤は、意識的に夏目を見ていた。


グラウンドに来ないこと自体は、想定の範囲だった。

診断書が出て、正式に休部になった以上、それは当然だ。


問題は、そこじゃない。


日常だった。


 


昼前の講義が終わったあと。

学内のラウンジで、伊藤は夏目の姿を見つけた。


テーブルの端。

人の流れから、ほんの少しだけ外れた席。


スマホは机の上に伏せて置かれている。

ノートも、教科書も、開かれていない。


ただ、正面を見ていた。


視線はどこにも合っていない。

考え事をしているようにも見えない。


伊藤は、少し離れた席に腰を下ろした。


五分。

十分。


周囲の学生は、入れ替わっていく。

立ち上がる者。

席を移す者。

笑いながら去っていく者。


それでも、夏目は動かなかった。


姿勢も、視線も、呼吸のリズムも変わらない。


(……止まってる)


伊藤は、胸の奥が冷えるのを感じた。


 


講義開始を告げるチャイムが鳴る。


ラウンジの空気が、一気に動く。

椅子の音。

足音。

話し声。


それでも、夏目は立ち上がらない。


伊藤は、立ち上がった。

できるだけ自然な歩調で近づく。


「夏目くん」


一度目は、反応がなかった。


「夏目くん」


二度目で、ようやく視線がこちらを向く。


でも、その目は——

焦点が合っていなかった。


「……あ」


声が、遅れて出る。


「次、講義あるわよ」


一拍置いてから、夏目は立ち上がる。


慌てる様子はない。

焦る気配もない。


「……そうだったな」


その言葉に、伊藤ははっきりと分かった。


これは、疲労じゃない。

ショックでもない。

休部の反動ですらない。


もっと深いところで、

“今”という感覚そのものが、薄れている。


 


講義中、伊藤はほとんど内容を覚えていなかった。


ノートは取っている。

文字も、図も、いつも通りだ。


でも、頭の中では、別の映像が流れている。


——甲子園の最後。

——終わりたくないとながら、それでも投げ切った夏目。


あの時の彼は、確かに“そこ”にいた。


怖がっていた。

苦しんでいた。

それでも、感情ははっきりとあった。


今は違う。


感情が薄い、なんて言葉じゃ足りない。

存在感そのものが、少しずつ遠くなっている。


(……私は)


伊藤は、指先に力が入るのを感じた。


私は、間に合ったのか。


休ませた。

止めた。

守った。


それは事実だ。


でも——

それで「隣に立った」ことになるのか。


 


講義が終わり、建物を出る。


風が吹き抜ける。

キャンパスの木々が、わずかに揺れる。


伊藤は、そのままベンチに腰を下ろした。


ここに座ったのは、初めてだった。


人が通り過ぎる。

笑い声が遠くで弾ける。


その全部が、少しだけ別の世界に見える。


怖かった。


夏目が壊れてしまうことが。


そして、

自分が「正しいことをしたつもり」で、

本当は何もできていないかもしれないことが。


(……逃げたくない)


伊藤は、そう思った。


マネージャーだから、できることをした。

学生だから、手続きをした。


それだけじゃ足りない。


支えるって、

一緒に立つって、

多分、もっと踏み込むことだ。


 


伊藤は、スマホを取り出した。


大学の公式サイト。

学部・学科一覧。


指が、自然とスクロールする。


心理学部。

臨床心理学科。


人の心を、知るための場所。

寄り添うための知識を学ぶ場所。


理由は、もう曖昧じゃなかった。


野球のためじゃない。

理論のためでもない。


ただ——

この人が、ここにいる間に。


一人じゃないと、

感じられる場所に立ちたい。


 


伊藤玲奈は、その場で決めた。


この人の隣に立つ資格を、

私は取りに行く。


守るためじゃない。

管理するためでもない。


——夏目孝太郎という人間を、

失わないために。


立ち上がる。


足取りは、まだ軽くない。

不安も、恐怖も消えていない。


それでも。


もう、目を逸らさない。


伊藤はそう決めて、

ゆっくりと歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ