第19話「練習がない日」
練習は、なかった。
正確には「行かなくていい」と言われているだけで、日常そのものが止まったわけではない。
朝はいつも通り大学に来て、講義も受ける。
時間割も、キャンパスの風景も、何一つ変わっていないはずだった。
それでも、どこかが噛み合っていない。
昼前の講義が終わり、教室を出ると、廊下は相変わらず騒がしかった。
次の講義の話、昼飯の相談、どうでもいい雑談が飛び交っている。
その中を、夏目は一人で歩く。誰も話しかけてこないし、特別避けられているわけでもない。
ただ、自然と距離がある。
慣れた、と言えば慣れていた。
そう思った自分に、わずかな違和感を覚える。
空き時間。
ベンチに腰を下ろし、スマホを取り出す。画面を眺めて、閉じる。
すぐにまた開くが、特に見るものはない。
何をするつもりだったのかも、思い出せない。
時間だけが、静かに過ぎていく。
気づけば、グラウンドの近くまで来ていた。
無意識だった。
足が止まり、金網の向こうを見る。
部員たちがアップをしていて、笑い声とミットの音が重なって聞こえる。
その瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
理由は分からない。
ただ、見続けてはいけない気がして、視線を逸らす。
夏目は何も考えず、その場を離れた。
午後の講義では、前の席も横の席も空いていた。
自分だけが座っている。
教授の声は聞こえているはずなのに、意味が頭に残らない。ノートは取っている。
文字も書いている。それでも、何を書いたのかを思い出せなかった。
講義が終わり、人の流れに混じって外へ出る。
コンビニに寄ってお茶を買い、キャップを開けて一口飲む。
味がしない。
喉が渇いていたのかどうかも分からず、キャップを閉めて歩き出す。
部屋に戻り、バッグを置いて椅子に座る。
何をするつもりだったのか分からないまま、壁と時計を交互に見る。
時間だけが、淡々と進んでいく。
ふと、自分の手に目がいった。大きい手だ。
昔から、そうだったはずだ。
――昔。
その言葉が、引っかかる。
何かを思い出そうとしている気がするのに、何を探しているのかが分からない。
ベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。
大学に入って、野球をして、投げてきた。
それは分かっている。
でも、楽しかったかと聞かれると答えが出ない。
苦しかったかも、悔しかったかも、よく分からない。
ただ「投げていた」という事実だけが、記録のように残っている。
スマホが震えた。伊藤からのメッセージだった。
【伊藤】
《今日、体調どう?》
画面を見つめる。
どう、とは何だろう。
悪いのか、普通なのか、自分でも判断がつかない。
【夏目】
《大丈夫》
そう返信して、画面を伏せた。
それが正しいかどうかも、もう分からなかった。
天井を見たまま、息を吸って吐く。
深呼吸をしているつもりなのに、うまくできていない。昔は、何かの前に必ずそうしていた気がする。
それが何だったのかは、思い出せない。
胸の奥に、じわじわとした空白が広がる。
痛みでも苦しさでもない。
ただ、ぽっかりと何かが抜け落ちている感覚。
自分の名前を、頭の中で呼んでみる。
夏目孝太郎。
知っている名前だ。
でも、それが自分自身とぴったり重なっているかと言われると、少しだけ曖昧だった。
その日一日、誰ともまともに話していないことに気づく。
それに対して、何も感じていない自分がいる。その事実が、いちばんおかしかった。
夜。電気を消し、目を閉じる。
夢も、記憶も浮かばない。
暗闇の中で、続きを考えようとして、やめた。
考え方そのものが、分からなかった。
ただ一つ、胸の奥に残っているのは――
「何かを失った気がする」という、理由のない感覚だけだった。




