第20話「隣に立つ資格」
休部に入ってからの数日間。
伊藤は、意識的に夏目を見ていた。
グラウンドに来ないこと自体は、想定の範囲だった。
診断書が出て、正式に休部になった以上、それは当然だ。
問題は、そこじゃない。
日常だった。
昼前の講義が終わったあと。
学内のラウンジで、伊藤は夏目の姿を見つけた。
テーブルの端。
人の流れから、ほんの少しだけ外れた席。
スマホは机の上に伏せて置かれている。
ノートも、教科書も、開かれていない。
ただ、正面を見ていた。
視線はどこにも合っていない。
考え事をしているようにも見えない。
伊藤は、少し離れた席に腰を下ろした。
五分。
十分。
周囲の学生は、入れ替わっていく。
立ち上がる者。
席を移す者。
笑いながら去っていく者。
それでも、夏目は動かなかった。
姿勢も、視線も、呼吸のリズムも変わらない。
(……止まってる)
伊藤は、胸の奥が冷えるのを感じた。
講義開始を告げるチャイムが鳴る。
ラウンジの空気が、一気に動く。
椅子の音。
足音。
話し声。
それでも、夏目は立ち上がらない。
伊藤は、立ち上がった。
できるだけ自然な歩調で近づく。
「夏目くん」
一度目は、反応がなかった。
「夏目くん」
二度目で、ようやく視線がこちらを向く。
でも、その目は——
焦点が合っていなかった。
「……あ」
声が、遅れて出る。
「次、講義あるわよ」
一拍置いてから、夏目は立ち上がる。
慌てる様子はない。
焦る気配もない。
「……そうだったな」
その言葉に、伊藤ははっきりと分かった。
これは、疲労じゃない。
ショックでもない。
休部の反動ですらない。
もっと深いところで、
“今”という感覚そのものが、薄れている。
講義中、伊藤はほとんど内容を覚えていなかった。
ノートは取っている。
文字も、図も、いつも通りだ。
でも、頭の中では、別の映像が流れている。
——甲子園の最後。
——終わりたくないとながら、それでも投げ切った夏目。
あの時の彼は、確かに“そこ”にいた。
怖がっていた。
苦しんでいた。
それでも、感情ははっきりとあった。
今は違う。
感情が薄い、なんて言葉じゃ足りない。
存在感そのものが、少しずつ遠くなっている。
(……私は)
伊藤は、指先に力が入るのを感じた。
私は、間に合ったのか。
休ませた。
止めた。
守った。
それは事実だ。
でも——
それで「隣に立った」ことになるのか。
講義が終わり、建物を出る。
風が吹き抜ける。
キャンパスの木々が、わずかに揺れる。
伊藤は、そのままベンチに腰を下ろした。
ここに座ったのは、初めてだった。
人が通り過ぎる。
笑い声が遠くで弾ける。
その全部が、少しだけ別の世界に見える。
怖かった。
夏目が壊れてしまうことが。
そして、
自分が「正しいことをしたつもり」で、
本当は何もできていないかもしれないことが。
(……逃げたくない)
伊藤は、そう思った。
マネージャーだから、できることをした。
学生だから、手続きをした。
それだけじゃ足りない。
支えるって、
一緒に立つって、
多分、もっと踏み込むことだ。
伊藤は、スマホを取り出した。
大学の公式サイト。
学部・学科一覧。
指が、自然とスクロールする。
心理学部。
臨床心理学科。
人の心を、知るための場所。
寄り添うための知識を学ぶ場所。
理由は、もう曖昧じゃなかった。
野球のためじゃない。
理論のためでもない。
ただ——
この人が、ここにいる間に。
一人じゃないと、
感じられる場所に立ちたい。
伊藤玲奈は、その場で決めた。
この人の隣に立つ資格を、
私は取りに行く。
守るためじゃない。
管理するためでもない。
——夏目孝太郎という人間を、
失わないために。
立ち上がる。
足取りは、まだ軽くない。
不安も、恐怖も消えていない。
それでも。
もう、目を逸らさない。
伊藤はそう決めて、
ゆっくりと歩き出した。




