第18話「止める権利」
翌日。
グラウンドは、いつも通りだった。
ノックの音、掛け声、ボールがミットに収まる乾いた音。
大学野球としては、何一つおかしくない光景。
伊藤は、ベンチの端に立っていた。
スコアブックは持っていない。
代わりに、鞄の中には一枚の紙が入っている。
折り目のついた、診断書。
視線の先には、ブルペンの隅に立つ夏目の姿があった。
ボールは握っている。
だが、肩も肘も動かない。
ただ、そこに立っているだけだった。
「夏目くん」
伊藤が声をかける。
反応が、明らかに遅れた。
「……ああ」
返事はあったが、視線は合わない。
伊藤は、その時点で確信していた。
(……やっぱり、今日もダメ)
伊藤は、ベンチに視線を移す。
「監督、少しお時間いいですか」
監督は一瞬だけ顔を上げ、周囲を見回してから言った。
「今か?」
「今です」
その言い切りに、監督は何かを察したらしい。
「……来い」
ベンチ裏。
グラウンドから少し離れた場所。
伊藤は、鞄から診断書を取り出し、無言で差し出した。
折り目のついた、診断書。
朝一で保健センターの医師に診てもらって、出たものだ。
監督はそれを受け取り、目を落とす。
数秒後、眉が大きく動いた。
「……診断書?」
「はい」
「誰のだ」
「夏目くんです」
監督は、すぐに夏目を見る。
「どういうことだ」
声は低いが、怒気はない。
困惑と、警戒が混じっている。
伊藤は、準備してきた言葉をそのまま出した。
「保健センターで医師の診察を受けました。
その上で、競技から一度距離を置く必要がある、という判断です」
「怪我じゃないんだろ」
「はい。身体的には問題ありません」
監督は、診断書を軽く叩く。
「なら、投げられる」
「“投げられる”だけです」
伊藤は、間髪入れずに言った。
「今の夏目くんは、そういう状態です」
監督は、少しだけ黙る。
「成績は出ている」
「知っています」
「球数も管理できている」
「それも、知っています」
「じゃあ、何が問題だ」
伊藤は、視線を逸らさなかった。
「このまま続ければ、
夏目くんは“野球をしている人間”ではなくなります」
監督の表情が、硬くなる。
「……それは、お前の主観だ」
「違います」
伊藤は、はっきり言った。
「診断です」
一拍。
「それに」
ここが、一番言うべきところだった。
「夏目くんは、特待生ではありません」
監督の目が、僅かに動く。
「一般入試で入学した、
普通の学生です」
伊藤は、淡々と続ける。
「野球を続ける義務も、
大学の指示に従う義務もない」
「……言い方を選べ」
「事実です」
伊藤は引かなかった。
「止める権利があるのは、
本人だけです」
監督は、しばらく診断書を見つめていた。
グラウンドの音が、遠くに聞こえる。
「……本人は」
「同意しています」
監督は、ゆっくりと息を吐いた。
「簡単な話じゃないぞ」
「分かっています」
「リーグのことも、チームのこともある」
「承知しています」
それでも、伊藤は続けた。
「それでも今、
競技を続けさせる方が問題です」
長い沈黙。
やがて、監督は言った。
「……休部扱いにする」
伊藤の肩が、わずかに緩む。
「公式には、コンディション不良だ」
「ありがとうございます」
「復帰時期は未定だ」
「構いません」
監督は、夏目を見る。
「……いいな?」
「……はい」
夏目は、静かに答えた。
その声には、
抵抗も、安堵もなかった。




