第15話「薄くなる」
リーグ戦も佳境に入る頃、
夏目孝太郎は「時間」を意識しなくなっていた。
講義が終わる。
次の講義まで、二時間空く。
以前なら、
トレーニングのことを考えたり、
動画を見たり、
何かしら“やること”があったはずだ。
今は違う。
自習室の一番奥。
壁に向いた席に座り、
ノートも開かず、
スマホも触らず、
ただ座っている。
何分経ったか、分からない。
時計を見ようとして、
腕を上げるのをやめた。
見ても意味がないと思ったからだ。
空調の音。
キーボードを打つ音。
誰かの咳。
全部、遠い。
(……今、何してたっけ)
ふと、そう思う。
でも、答えが出ない。
「何をしていたか」だけじゃない。
「何をしようとしていたか」も、思い出せない。
講義の内容も覚えていない。
ノートは取っていたはずだが、
どこにあるのか分からない。
――そもそも。
(……俺、今、何年だ)
一瞬、本気で分からなくなった。
一年生。
大学野球部。
投手。
頭の中で言葉を並べてみる。
でも、それは
“思い出した”というより
“誰かに教えられた情報”みたいだった。
自分のことなのに、
自分の輪郭がない。
昼休み。
学食は避けるようになっていた。
理由はない。
ただ、人が多い場所に行くと、
どこを見ればいいのか分からなくなる。
コンビニでパンを一つ買い、
人気のないベンチに座る。
袋を開ける。
パンを手に取る。
一口目をかじる前に、
手が止まる。
(……これ、食べる意味あるか)
空腹かどうか、分からない。
喉が渇いているのかも、
よく分からない。
結局、半分も食べずに袋を閉じる。
ゴミ箱の前に立ち、
捨てようとして、また止まる。
(……誰のゴミだ)
そう思って、
少しだけ首を傾げた。
夕方。
家に帰る。
鍵を開けて、
靴を脱いで、
部屋に入る。
そこで、立ち止まる。
(……ここ、俺の部屋だっけ)
景色は見覚えがある。
ベッドも、机も、
壁に貼った予定表も。
全部、知っている。
なのに、
“帰ってきた”という感覚がない。
机の上に置かれたノート。
その隣に、野球部のキャップ。
キャップを手に取る。
しばらく、眺める。
(……これ、何で持ってるんだ)
答えは、出ない。
キャップを被ってみる。
鏡を見る。
そこにいるのは、
見慣れたはずの自分。
でも、
自分だという確信が持てない。
(……俺って、こんな顔だっけ)
心臓が、少しだけ速くなる。
怖い、という感情が
遅れてやってくる。
そのまま、ベッドに座る。
横になる。
天井を見つめる。
今日、何をしたか。
何を考えたか。
誰と話したか。
何一つ、思い出せない。
なのに、
一日が終わろうとしている。
(……明日)
明日、何があるかも分からない。
練習があるのか。
講義があるのか。
試合があるのか。
全部、遠い。
そのとき。
スマホが震えた。
画面を見る。
【伊藤】
「大丈夫?
今日、少し元気なかった」
文字を読む。
意味は分かる。
誰からかも分かる。
でも。
(……伊藤、って誰だ)
その考えが浮かんだ瞬間、
指が止まった。
数秒後、
それが“おかしい”ことだと理解する。
伊藤玲奈。
マネージャー。
高校から一緒。
知っている。
全部、知っている。
それでも、
胸の奥が冷える。
スマホを握ったまま、
返事が打てない。
何と返せばいいのか、分からない。
「大丈夫」とは言えない。
「大丈夫じゃない」理由も言えない。
そもそも――
何が起きているのか、自分で分からない。
スマホの画面が暗くなる。
そのまま、
夏目は目を閉じた。
眠気はない。
ただ、
自分が少しずつ薄くなっていく感覚だけが、
確かにそこにあった。




