第13話「試合後」
試合後。
スタンドの客が引き上げ始め、通路にはゆっくりとした人の流れができていた。夏目は、まだ席を立てずにいた。
グラウンドでは整備が始まりかけている。
ついさっきまで“仕事”をしていた場所が、もうただのフィールドに戻りつつあった。
「……行こっか」
伊藤が小さく声をかける。
「……ああ」
二人で通路を下りる。その途中、通用口の近くで小さな人だかりができているのが見えた。
サインをもらう人。写真を頼む人。スタッフに止められながらも粘る人。
その中心に――佐藤がいた。
ユニフォームのまま、汗を拭きながら、一人ひとりに短く、丁寧に対応している。
ヒーローじゃない。でも、確実に“プロ野球選手”だった。
佐藤が、ふと顔を上げる。視線が合う。一瞬。本当に一瞬だけ。
次の瞬間、佐藤の表情が変わった。驚き。それから、照れくさそうな笑い。
「夏目?」
「……うん」
それだけで、周囲の音が少し遠くなる。
スタッフが気を利かせたのか、「少しだけなら」と言って、二人の間に空間ができた。
伊藤は一歩だけ下がる。聞こえない距離。でも、見守れる距離。
佐藤が先に口を開いた。
「来てくれたんだな」
「……ああ」
「どうだった?」
言葉の端に、ほんの少しだけ“怖さ”が混じっている。夏目は正直に答えた。
「……すごかった」
佐藤は一瞬だけ目を伏せてから、笑った。
「ヒット一本と、四球一個だぞ?」
「一軍だ」
それで十分だった。佐藤は小さく息を吐く。
「……なあ」
声が、少し低くなる。
「ニュースとか、見てる」
夏目は黙って頷いた。
「大学でも抑えてるんだろ。完全試合もやったって」
「……ああ」
佐藤はしばらく夏目の顔を見ていた。それから、ゆっくりと言う。
「あのさ」
一拍。
「プロ入って受けた、どのピッチャーの球よりも」
さらに一拍。
「甲子園の、あの最後の一球の方が、俺の中じゃ一番だ」
静かな声だった。でも、重かった。
「怖かったし、速すぎたし、正直、捕れないかもって思った」
佐藤は少し笑う。
「でもさ。あれが、夏目だろ」
夏目は何も言えなかった。言葉が出てこない。
佐藤は、それ以上踏み込まなかった。
「……俺はさ。プロでやる。ここで、必死に生きる」
そして、真っ直ぐに言う。
「だから、お前も。お前の場所で、ちゃんと投げろよ」
夏目の喉が詰まる。
「……ああ」
それが、限界だった。
佐藤は満足そうに頷く。
「よし。じゃ、またな」
少し間を置いて。
「夏目、頑張れ。俺も頑張るから」
「……わかった」
短く笑って、佐藤はスタッフに呼ばれて戻っていった。人波に紛れて、もう見えなくなる。
帰り道。
駅へ向かう人の流れの中で、夏目はずっと無言だった。
電車に乗り、並んで座る。伊藤も、すぐには話しかけなかった。
しばらくして、窓の外を見たまま言う。
「……佐藤くん、頑張ってたね」
「……ああ」
「逃げなかったわね」
「……ああ」
伊藤はそれ以上は聞かない。代わりに、こう言った。
「夏目くん。今日、羨ましかった?」
少し間。
「……ああ」
伊藤は小さく頷いた。
「それなら、大丈夫。羨ましいって思えるうちは、まだ終わってないから」
電車が揺れる。
夏目は、何もない空間に手を伸ばしかけて――途中でやめた。代わりに、膝の上で拳を握る。
(……俺は、どこで投げる)
答えは、まだない。
でも。
“投げたい”という感情だけは、確かに胸の奥に戻ってきていた。




