第10話「近づく理由」
その日の練習は、早めに切り上げになった。
前日の試合で球数を使った投手陣は、軽めの調整だけ。
グラウンドには、どこか中途半端な空気が残っていた。
伊藤は、ベンチで片付けをしながら何度も視線を走らせる。
夏目くんは、ブルペンにも入らず、
外野の端でストレッチをしている。
誰とも話さない。
誰にも話しかけられない。
昨日、六点取られて負けたのに、
その顔には、何も残っていなかった。
悔しさも、怒りも、
引きずるような感情すらない。
それが正しいのかどうか、
伊藤にはもう分からなかった。
(……このままじゃ)
気づけば、伊藤は歩き出していた。
「夏目くん」
声をかけると、夏目はゆっくり振り返る。
「どうした」
いつも通りの声。
いつも通りの表情。
「今日、これで終わりだから……」
一瞬、言葉を探してから続ける。
「よかったら、少し話さない?」
夏目は、断らなかった。
二人で歩くのは、久しぶりだった。
グラウンドの外、学内の通路。
部活終わりの学生たちが、
楽しそうに騒ぎながらすれ違っていく。
その中を、二人は黙って歩いた。
「……昨日の試合」
伊藤が先に口を開く。
「何か、思うことある?」
夏目は、少し考える素振りを見せてから答えた。
「特にない」
嘘ではない。
それが、伊藤には分かってしまう。
「負けたのに?」
「負ける時もある」
淡々とした返答。
「リリーフが打たれたのも、
想定の範囲だ」
その言い方が、胸に刺さる。
「……悔しくない?」
伊藤は、思わず聞いていた。
夏目は立ち止まる。
「悔しい、って感情は」
少しだけ、間を置いて。
「勝ちたいと思ってる時に出るもんだろ」
伊藤は、言葉を失った。
「今は……」
夏目は空を見上げる。
「投げるのが仕事だからな」
その言葉は、
昨日のベンチやスカウトの声と、
どこか同じ響きを持っていた。
(……それを、本人が言うんだ)
伊藤は、拳を強く握る。
「夏目くん」
声が、少しだけ低くなる。
「前に、楽しかったから続けてるって言ってたよね?」
夏目は、すぐに答えなかった。
沈黙が落ちる。
「楽しいかどうかは、
あんまり関係ない」
ようやく出た答えは、
まるで答えになっていなかった。
伊藤は、一歩だけ距離を詰める。
「高校の時は、違った」
断言する。
「勝つことより、
投げることそのものが前にあった」
夏目は、何も言わない。
否定もしない。
それが、答えだった。
「今の夏目くんは」
伊藤は、言葉を選びながら続ける。
「何のために投げてるのか、
自分でも分からなくなってる」
一瞬、夏目の視線が揺れた。
ほんの一瞬だけ。
伊藤は、それを見逃さなかった。
「……ごめん」
すぐに、言い添える。
「責めたいわけじゃない」
夏目は、小さく首を振る。
「いい」
そして、ぽつりと。
「……その通りだと思う」
その言葉に、伊藤の胸が詰まる。
「私ね」
少しだけ、声を柔らかくする。
「マネージャーになったの、
正解かどうか、まだ分からない」
正直な言葉だった。
「でも」
はっきりと言う。
「夏目くんが、
このまま“何も感じなくなる”のは嫌」
夏目は、伊藤を見る。
「……それは」
「私の都合」
即答だった。
「でも、それでいい」
しばらく、沈黙。
風が吹き、
グラウンドのネットがわずかに揺れる。
「伊藤」
珍しく、夏目が名前を呼んだ。
「俺は、多分……」
言いかけて、止まる。
「いや、いい」
そう言って、歩き出す。
伊藤は、追いかけなかった。
でも。
(……今の)
確かに、
“止まりかけた言葉”があった。
それだけで、十分だった。
距離は、まだある。
踏み込めない場所も、山ほどある。
それでも。
伊藤は、はっきりと思った。
見ているだけの位置には、
もう戻らない。
そう決めた自分の足取りは、
さっきより、ほんの少しだけ軽かった。




