第11話「置いていかれたまま」
大学での生活が、
いつの間にか「続くだけのもの」になっていた。
夏目孝太郎は、講義の合間にスマホの画面を見下ろしていた。
通知は多い。だが、ほとんどはどうでもいいものだった。
その中で、一つだけ目に留まる。
【佐藤】
久しぶり。元気してる?
急だけどさ、今度の週末、時間ある?
画面を閉じる。
数秒後、また開く。
「……佐藤、か」
大学では、ほとんど名前を呼ばれない。
「甲子園の完全試合」
「世界最速を投げた男」
「大学野球の話題の新人」
そういう言葉ばかりが先に立つ。
“佐藤”という名前を、
久しぶりに「個人」として思い出した。
【夏目】
ある
どうした
すぐに返信が返ってくる。
【佐藤】
一軍に上がった
デビュー戦あるんだけど、観に来ない?
指が、止まった。
(……もう、そんなところまで行ったのか)
プロ野球。
一軍。
その二文字が、思っていたよりも遠く感じる。
【夏目】
行く
短く返すと、胸の奥に小さな違和感が残った。
⸻
その日の講義が終わったあと。
キャンパスの外に出ると、夕方の風が思ったより冷たい。
季節が、少しずつ進んでいる。
「夏目くん」
呼び止められて振り返ると、伊藤が立っていた。
ノートを抱え、歩調はいつもより少しゆっくりだ。
「帰るところ?」
「ああ」
「私も。……よかったら、途中まで一緒にどう?」
断る理由はなかった。
並んで歩き出す。
キャンパスの外れ、駅へ向かう道。
視線を感じる。
「……あの人じゃない?」
「甲子園の……」
ひそひそとした声。
伊藤は何も言わず、
自然に、ほんの半歩だけ前に出る。
その距離が、少しだけ楽だった。
「ね」
伊藤が口を開く。
「佐藤くん、一軍デビューなんですって?」
「……知ってるんだな」
「うん。中村くんから聞いた」
中村。
今もどこかで、騒がしく生きている名前。
「夏目くんも観に行くんでしょ?」
「行く」
伊藤は、ほんの少しだけ笑った。
「楽しみね」
「……そうだな」
会話は、それだけで途切れる。
無言のまま歩いていると、
公園の前に差しかかった。
ブランコ。
ベンチ。
古い街灯。
夏目の足が、無意識に止まった。
(……ここ)
理由は分からない。
ただ、「前にも来たことがある気がした」。
伊藤が気づいて、足を止める。
「どうした?」
「……いや」
夏目は首を振る。
「何でもない」
伊藤は、公園を一度だけ見回した。
「昔、ここ来たことある?」
「……分からない」
正直な答えだった。
記憶はない。でも、感覚だけが残っている。
伊藤は、少し考えるように黙った。
「夏目くんって」
間を置いて、続ける。
「いつも、一人で立ってる感じがするのよね」
「そうか?」
「うん」
責める口調ではない。
ただ、観察するような声音。
「チームにいるのに、
どこか“別の場所”にいるみたい」
夏目は、答えなかった。
否定もしなかった。
それが、一番近い表現だと分かっていたから。
「でも」
伊藤は前を向いたまま言う。
「佐藤くんは、夏目くんの隣に立ってた人でしょ」
「……ああ」
「だから、きっと大丈夫」
何が大丈夫なのかは言わない。
それが、伊藤らしかった。
駅前に着く。
人が増え、光が強くなる。
「じゃあ、ここで」
「またな」
夏目が言うと、
伊藤は一瞬驚いた顔をしてから、静かに笑った。
「うん。また」
別れ際、伊藤は一度だけ振り返る。
「佐藤くんのデビュー戦、
ちゃんと観てあげようね」
「……分かってる」
伊藤は満足そうに頷き、人の流れに消えた。
⸻
帰りの電車。
窓に映る自分の顔は、大学に入ってからほとんど変わっていない。
それでも、甲子園の頃とはどこか違って見えた。
佐藤は、前に進んでいる。
プロの世界で、恐怖と一緒に。
(……俺は)
答えは、まだ出ない。
スマホが震える。
【佐藤】
チケット用意しとく
無理だったら言えよ
【夏目】
絶対、行く
短い返事。
電車は次の駅に止まる。
外は、もう夜だった。




