第62話「揺れ」
六回表が始まるころには、
甲子園の空気そのものが変わっていた。
夏目の右ストレートは相変わらず、
沈まない軌道と高回転で鳳来打線をねじ伏せている。
だが――
打たれないのに、なぜか球数が増えていく。
理由は簡単だった。
鳳来が“粘っている”のだ。
バットは折られる。
差し込まれる。
詰まる。
打ち上がる。
でも簡単に三振はしない。
(……嫌な粘り方してるな)
佐藤はミットの奥で指先を震わせた。
球威は落ちていない。
内容も落ちていない。
それでも、
確実に“鳳来の気迫”が伝わってきていた。
六回裏、開明の攻撃。
山田が打席に立ち、深呼吸する。
(頼む……なんか起きろ……!!)
鳳来の投手は全国屈指の制球型。
コーナーを丁寧に突いてくる。
山田はフルカウントから
渾身のスイングでセンター前へ――
と思った瞬間。
センターが、信じられない初動で走り出した。
(はっや!!)
もはや打球が落ちる未来が見えない。
グラブに吸い込まれるようにキャッチ。
地鳴りのような拍手とため息が広がる。
(鳳来、守備で点を取ってるようなもんだな……)
ベンチで中村が肩を落とす。
夏目は無表情のまま、
水を飲んで視線を外野に向けていた。
(すごいな……あそこで捕られるのか)
淡々とした見た目とは裏腹に、
胸の奥が、またわずかにざわついた。
七回表。
鳳来の二番が、またもファウルで粘る。
(……またか)
八球目。
ようやく打たせたフライを
鈴木が落ち着いて処理した。
アウト。
だがスタンドは拍手に包まれる。
粘りそのものを称賛する拍手だった。
(球数……だいぶ使わされてるな)
伊藤の指先がスコアブックの端で止まる。
夏目は平気な顔をしている。
息も切れていないし、球威も落ちていない。
だけど――
“完璧”じゃなくなってきているのが分かる。
(……夏目君。あなたもしかして……)
野球を知ったばかりの怪物が、
初めて“相手の意思”に飲まれかけていた。
八回表。
鳳来四番の大きな弧を描くフライ。
中村が落ち着いて処理して拳を握る。
が――夏目の球数は、
試合前の想定より確実に増えていた。
球威は落ちない。
速度も落ちない。
だけど何かが僅かに揺れている。
夏目自身がまだ気づかないレベルの揺れ。
(終わりたくない……なのに、なんで揺れてんだ俺)
胸の奥で始まった感情が、
球そのものに影響し始めていた。
八回裏。
一死一塁。
佐藤が打席に入る。
初球を叩く。
センター前へ。
静かな打球だったが、
これが大きかった。
スタンドが一気に沸く。
(……これでいい)
佐藤は一塁上で拳を握った。
派手さはいらない。
夏目に繋げば、それでいい。
一死一二塁。
夏目は立つ。
声援が揺れる。
だが鳳来は勝負しない。
ベースを空けても、
夏目と勝負する意味がゼロだと判断している。
意図的な敬遠。
観客席にブーイングが広がる。
でも鳳来は揺れない。
(この試合、夏目一人で決めさせるな。
ほかの誰かに打たせろ)
夏目は一塁にゆっくり歩きながら心の中で呟いた。
(……勝負してこいよ)
九回表。
鳳来の七番を、
夏目はストレートで三振に取った。
八番も三振。
だが九番との対決。
あと1つのアウトで試合が終わる。
ファウルが続く。
七球目。
低めのスライダー。
バットがわずかに触れ――ファウル。
九球目。
外角ストレート。
見送られた。
フルカウント。
佐藤がミットを構えながら思う。
(ここだ……これで最後だ……)
球場全体が息を止めた。
夏目はボールを握ったまま、動かない。
ほんの一瞬、
マウンド上で視線を下へ落とした。
(……終わりたくない)
胸の奥が締め付けられる。
この瞬間、
“夏目の異変” を最初に察したのは佐藤だった。
(夏目……お前……)
投げたいのに。
終わりたくないから投げたくない。
そんな矛盾そのものが球を止めた。
佐藤がすぐタイムを取った。
夏目のもとへ走る。
続く




