第63話「終わらせたくなかった夏」
九回表。
二死、フルカウント。
夏目は佐藤のサインを見たあと、動きを止めた。
ほんの一瞬。
だが、いつもの夏目ならありえない間だった。
佐藤はすぐにタイムを取り、マスクを外してマウンドへ走る。
夏目は視線を落としたまま、ボールを握っていた。
右手が、わずかに震えている。
「……夏目。肩か? どっか痛いのか?」
返事はない。
聞こえるのは、ざわめくスタンドの声だけだった。
「夏目?」
しばらくして、夏目がかすれた声で言った。
「……違う」
「じゃあ何だよ」
夏目はゆっくり顔を上げた。
「……終わりたくない」
「…………」
佐藤は何も言えなかった。
(終わりたくない……)
あれだけ野球に興味がなかった夏目が。
甲子園に来ても、いつも通りだった夏目が。
(……そう思ってんのかよ、お前)
佐藤は振り返った。
「……来い!! 全員!!」
大声で叫ぶ。
すぐにチームメイトたちがマウンドへ駆け寄ってきた。
中村、山田、高橋、田中、渡辺、金森、鈴木、加藤。
夏目を囲むように円ができる。
真っ先に口を開いたのは中村だった。
夏目の肩をつかむ。
「終わりたくねぇのは……全員だよ、バカ」
山田も笑った。
「そりゃそうっすよ。先輩達と野球できんの、もう最後なんっすから」
高橋は鼻をすすり、田中は下を向いたまま肩を震わせている。
渡辺も声を絞り出した。
「……俺も、まだ終わりたくないっ……」
加藤はもう号泣していた。
「……俺もまだ先輩達と野球したいっす……」
金森はグラブを胸に抱きしめる。
「夏目の球の匂い……今日で最後なの、やだ……」
「お前その匂いのやつ怖いんだよ!」
中村が即座にツッコみ、何人かが泣きながら笑った。
鈴木が静かに言う。
「……夏目。終わらせよう。
お前の球で。お前の決勝で」
そして最後に、伊藤が歩いてきた。
ペンを持つ指が震えている。
「……夏目くん。私も終わりたくない」
夏目が伊藤を見る。
「だって……あなたの野球を、まだ見ていたいから……」
「…………」
夏目は周りを見た。
中村。
佐藤。
伊藤。
そして、ここまで一緒に戦ってきた仲間たち。
自分だけじゃなかった。
みんな、終わりたくないと思っている。
夏目は右手を強く握った。
「……分かった。投げる」
佐藤が力強く頷く。
「そうだ。終わりは自分で決めろ」
そしてミットを叩く。
「この夏の最後は、お前の一球で終われ」
「……おう」
夏目は円の中から一歩出て、マウンドへ戻った。
もう迷いはなかった。
フルカウント。
二死。
二点リード。
完全試合まで、あと一人。
スタンドの観客が立ち上がっていく。
夏目は深く息を吸い、佐藤のミットを真っ直ぐ見た。
(……終わりたくない)
右手の中で、ボールを握る。
(でも終わるなら――)
足を上げる。
(この一球で終わらせる)
右腕を振り抜いた。
ズバァァァァァァン!!!!
電光掲示板に数字が出る。
【174km/h】
「…………!」
自己最速。
そして、世界最速。
打者は一歩も動けなかった。
白球は佐藤のミットへ収まっている。
審判の右手が高く上がった。
「ストライク!! バッターアウト!!」
一瞬遅れて――
甲子園が爆発した。
「うおおおおおおおおおお!!!」
歓声。
拍手。
泣き声。
夏目の名前を叫ぶ声。
その全部が一気に押し寄せる。
夏目孝太郎。
甲子園決勝。
完全試合達成。
「夏目ぇぇぇぇぇ!!!」
仲間たちが一斉にマウンドへ走ってくる。
抱きつかれ、頭を叩かれ、身体を揺さぶられる。
みんな泣いていた。
それでも笑っていた。
伊藤もこっそり涙を拭き、スコアブックに書き込む。
《夏目孝太郎 完全試合。右腕で投げ切る。
最後の夏、最高の終わり。》
中村が夏目の肩へ拳を軽くぶつけた。
「ほらな」
「…………」
「終わるときは……全員でだろ?」
夏目は中村を見る。
泣きそうな顔で、それでも少し笑った。
「……ありがとう」
その一言を聞いて、中村の顔が崩れた。
「おまっ……それ今言うなよぉぉぉ!!」
また何人かが泣いた。
笑いながら。
泣きながら。
最後まで騒がしい、いつもの開明高校だった。
こうして、このチームで戦う最後の夏は終わった。
終わりたくなかった。
もっと投げたかった。
もっと一緒に野球をしたかった。
それでも最後は、全員で勝った。
夏目は仲間たちに囲まれながら、もう一度だけ甲子園のマウンドを見た。




