第44話「怪物の選択」
7回表。
スコアは2―2の同点。
夏目孝太郎は、マウンドに立っていた。
右肩が重い。
一球ごとに、沈むような違和感が残る。
(……きついな)
五回、六回。
誤魔化しながら投げてきた。
でも、もう隠せない。
142キロ。
自分でも分かるほど、落ちていた。
相手打者のスイングが、さっきより合っている。
ファウルが、芯に近づいている。
(……右、そろそろ限界か)
ベンチから声が飛ぶ。
「夏目!」
中村だ。
怪我でベンチにいるが、身を乗り出している。
「無理すんなよ!」
夏目は、マウンド上で小さく頷いただけだった。
次の球。
わずかに外に逸れた。
佐藤がすぐに立ち上がる。
「タイム!」
マウンドに駆け寄ってくる。
「……右、だいぶ来てる」
夏目は、視線を落とした。
(……本当は、こっちで投げきりたかったんだけどな)
理由は分からない。
ただ、何となく。
それでも――
(負けるよりは、マシか)
「……左、いく」
淡々とした声だった。
佐藤が一瞬だけ目を見開く。
「マジか」
「うん」
それだけ。
余計な言葉はなかった。
佐藤はすぐに頷く。
「了解」
ベンチから、左利き用のグラブが放られる。
スタンドがざわついた。
「え、左?」
「両方いけるのかよ……?」
夏目は気にしない。
グラブをはめる。
(……やっぱ、変な感じ)
少しだけ、胸の奥がざわつく。
でも、それ以上は考えない。
考えると、投げられなくなる。
マウンドに戻る。
左腕を上げる。
指が、自然な位置にかかる。
(……まあ、いけるか)
一球目。
縦スラのような回転、だが伸びていく。
減速しない。
ジャイロボール。
ズバァァン!!
ミットが鳴った。
【160 km/h】
一拍遅れて、電光掲示板が光る。
どよめき。
「……は?」
「左で、160……?」
佐藤の腕が、じんと痺れた。
(……やっぱ、これ反則だぞ)
二球目。
外へ滑りながら沈むボール。
三球目。
ありえない速度から縦に落ちる。
バットは、空を切った。
三振。
球場が、一段階うるさくなる。
夏目は、表情を変えない。
(……あと、ひとつずつだな)
8回、9回も、ゼロ。
淡々と、抑える。
派手なガッツポーズもない。
吠えもしない。
ただ、投げて、戻る。
9回裏
一死二、三塁。
打席に、佐藤。
球場のざわめきが、ひとつ低く沈んだ。
「勝負するのか……?」
「いや、歩かせたら次が夏目だぞ……」
「でも佐藤も、普通に怖ぇ……」
迷いが、そのまま空気になって漂う。
ネクストバッターズサークル。
夏目が立っていた。
素振りはしていない。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
佐藤は一度だけ、そちらを見た。
(……あぁ)
(こりゃ、打つしかねぇな)
バットを握り直す。
(ここで逃げたら、
俺は一生、後悔する)
初球。
外角へ逃げるスライダー。
佐藤は、見送った。
二球目。
インローに落ちるフォーク。
これも、見た。
球場がざわつく。
「……見えてる」
「マジかよ」
三球目。
ほんの少しだけ、甘く入ったストレート。
(来た)
踏み込む。
振り切る。
カキィィィィィィン!!!
乾いた、最高の音。
打球はセカンドの右を抜け、
ライト前を転がっていく。
三塁ランナーが帰る。
サヨナラ。
甲子園が、ひっくり返った。
「うおおおおお!!」
「佐藤ぉぉぉぉ!!!」
佐藤は一塁ベースを踏んだ瞬間、
ようやく、息を吐いた。
(……返せた)
ベンチが飛び出す。
中村が叫ぶ。
「お前ほんと最高だわ!!」
佐藤は笑った。
「……夏目が見てたからな」
振り返る。
ネクストにいた夏目が、
ほんの少しだけ、口元を緩めていた。
それで、全部だった。




