第33話「怪物、聖地に立つ」
甲子園球場の黒土は、思っていたよりも重かった。
そして――暑い。
照り返す太陽。
足元からじわじわと伝わってくる熱。
開明高校の選手たちは、グラウンドに足を踏み入れた瞬間、思わず周囲を見回した。
「……ここが、甲子園か」
中村が小さく呟く。
ずっと目指してきた場所。
スタンド。
スコアボード。
黒土。
その全部が、テレビで見ていたものと同じだった。
ただ一人。
夏目孝太郎だけは額の汗を拭いながら思っていた。
(……暑いな)
それだけだった。
⸻
スタンドはすでに大勢の観客で埋まっていた。
そして、開明高校が姿を見せるとすぐに声が飛ぶ。
「動画の怪物だ!!」
「背番号10、でけぇ!!」
「本物だぞ!!」
「あれが170キロのやつか!?」
夏目に視線が集まる。
本人は少し歩きづらそうに眉を寄せただけだった。
(……人多いな)
感動より、そっちが気になる。
横から中村が肩を叩いた。
「夏目ぇ……! ついに来たんだぞ!! 甲子園!!」
「……うん」
「“うん”で済ますな!! 普通ここ泣くとこだろ!!」
「脱水になる。水飲め」
「母親ムーブやめろ!!」
伊藤が苦笑しながら水筒を差し出す。
「はい、夏目くんも。塩分も入ってるから」
「ありがとう」
「なんで伊藤には素直なんだよ!」
「水くれたから」
「俺も今度から水持っとくわ!!」
周りの部員たちが笑う。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。
⸻
開会式。
全国から集まった選手たちがグラウンドに整列する。
その中で――夏目だけが明らかに浮いていた。
頭一つ。
いや、二つ近く高い。
「おい、あれ開明の夏目だろ?」
「デカッ……」
「動画で見たよりヤバくね?」
「隣の選手が小さく見えるんだけど」
観客席だけではない。
整列している他校の選手たちまで、ちらちらと夏目を見ている。
中村は、なぜか誇らしげだった。
「おい夏目! お前、めちゃくちゃ見られてるぞ!」
「そうか」
「もっと気にしろぉぉぉ!!」
夏目は空を見上げた。
(……暑い)
感動ゼロだった。
⸻
開会式を終え、試合前のアップへ。
県大会決勝で痛めた夏目の右手も、甲子園までには腫れが引き、問題なくボールを握れるようになっていた。
開明高校もキャッチボールを始める。
夏目が軽く投げた。
バチィィン!!
「うおっ!?」
山田のミットが大きく跳ねた。
「なっ……夏目!! 手加減しろ!!」
「してる」
「してねぇ!! 今の40%じゃねぇ!!」
「40より控えめだ」
「じゃあ何%なんだよ!?」
「知らん」
「基準が壊れてんだよ!!」
周囲の高校の選手たちも振り返る。
「今の音なに?」
「キャッチボールだよな……?」
「銃声じゃなくて?」
⸻
その様子を見ながら、佐藤がぽつりと呟いた。
「……最近さ」
中村が振り返る。
「ん?」
「山田の球が……遅く見えるんだよな」
「は?」
山田まで振り返った。
「おい」
佐藤は真顔だった。
「夏目の170キロ受け続けてるとさ……普通の球が途中で一瞬止まる感じするんだよ」
「俺の球を普通扱いすんな!」
「いや山田の球もちょっとは速いんだけど!」
「フォローになってねぇ!」
夏目は淡々と返す。
「慣れだろ」
「お前の“慣れ”は参考にならねぇ!!」
伊藤はスコアブックを持ちながら佐藤を見る。
(……佐藤くん、普通に捕手として成長してない?)
毎日のように170キロを受け続けた結果。
どうやら被害だけでは済んでいなかったらしい。
「夏目、もう一球来い!」
「おう」
「いや、やっぱちょっと優しくな!!」
「どっちだよ」
⸻
試合直前。
ブルペン。
夏目が数球投げたところで、急に動きを止めた。
「……佐藤」
「ん?」
夏目の顔が妙に真剣だった。
佐藤も身構える。
「どうした。右手か?」
「いや」
「じゃあ何だよ」
「腹いてぇ」
「…………は?」
一瞬、時間が止まった。
夏目は腹を押さえる。
「うんち行ってくる」
「言うなやあああああ!!!」
佐藤の絶叫がブルペンに響いた。
「今!? 今なの!? 甲子園だぞ!?!」
「甲子園でも出るもんは出るだろ」
「正論だけど今聞きたくねぇよ!!」
「漏れたら困る」
「そりゃ困るけど!! でも今じゃなくてよくない!?!?」
「身体に言え」
「知らねぇよ!!!」
夏目はトイレへ向かって歩き出す。
「すぐ戻る」
「絶対だぞ!!」
「……たぶん」
「“たぶん”やめろ!!
プレイボールまでに絶対戻ってこい!!!」
夏目は片手を上げ、そのまま去っていった。
佐藤はマスクを持ったまま立ち尽くす。
「…………」
中村が近づいてくる。
「夏目は?」
「うんち」
「は?」
「うんち!!」
「甲子園初戦直前に何してんだあいつぅぅぅ!!!」
⸻
数分後。
夏目が何事もなかったように戻ってきた。
「間に合った」
佐藤が睨む。
「何が?」
「全部」
「報告すんな!!!」
その直後。
甲子園にサイレンが鳴り響いた。
『プレイボール!』
中村が松葉杖を握りしめる。
「よっしゃあああ!!
甲子園初戦!! 行くぞお前らぁぁぁ!!!」
「「「おおおおお!!!」」」
夏目もキャップをかぶり直した。
「……暑い」
「最後までそれかよ!!!」




