第13話「呼ばれる名前、消える名前」
紅白戦が終わっても、誰もすぐには引き上げなかった。
グラウンドにはまだボールの音が残っているのに、選手たちは自然と距離を取り始めていた。
談笑する者は少ない。
代わりに増えたのは、スマホを見る時間と、意味もなくグローブを拭く仕草だ。
「……今日で決まるな」
誰かの呟きが、風に混じって消えた。
九条昂は、ベンチでスパイクの紐を結び直しながら、息を整えていた。
さっきの打席の感触が、まだ腕に残っている。
外しに来たスライダー。
振った瞬間、頭の中で一ノ瀬の声が重なった。
――全部、打とうとするな。
ヒット一本。
たったそれだけだが、今の九条にとっては、確かに「前進」だった。
ふと顔を上げると、夏目孝太郎がこちらを見ているのに気づく。
視線が合った。
九条は、少しだけ口角を上げた。
夏目は、何も言わない。
ただ、静かに頷いた。
(……見てたな)
それだけで、九条は十分だった。
⸻
同時刻、別棟の会議室。
空気は、紅白戦以上に張り詰めていた。
ホワイトボードには、名前が並んでいる。
その横に、細かなメモと印が加えられていく。
「投手から行こう」
監督の一言で、全員の視線が集まる。
「まず、夏目孝太郎」
異論は出なかった。
議論にもならない。
「起用は先発軸。ただし全力は使わせない」
「1人で2人分の投手として考える」
「投げない日は外野も想定」
無茶だ。
だが、この短期決戦では無茶が勝ち筋になる。
次の名前。
「上野球児」
「間違いないな」
「経験値が高い」
「クローザーとしてこれ以上はない」
チェックが入る。
さらに数名、投手の名前が挙がり、丸が付けられていく。
そして野手。
「一ノ瀬修吾」
ここも、言うまでもない。
「キャプテンとして引っ張ってもらおう」
「核になる選手だ」
「調子は問題なし」
続いて――
「九条昂」
一瞬、間が空いた。
バッティングコーチが口を開く。
「最初の紅白戦で見た時は、正直言って厳しかった。夏目の球に、完全に飲まれていた」
誰も否定しない。
だが、続けて言う。
「ただ、今日の二本目の紅白戦。外しに来た球を拾った打席は評価したい」
映像が再生される。
外角高めのスライダー。
芯を外したまま、ヒットゾーンへ運ぶ打球。
「ただの悪球打ちではない。割り切れている。
何より、“設計”が見えた」
監督が、腕を組んだまま言う。
「世界相手に、全ての球を打てる打者などいない」
「勝ち筋を作れる打者が欲しい」
結論は、静かに出た。
「九条は残す」
その一言で、何人かが小さく息を吐いた。
一方で、名前が呼ばれないまま消えていく選手もいる。
実力がないわけじゃない。
ただ、今大会の“役割”に合わなかった。
「……以上だな」
ホワイトボードを見渡し、監督が言う。
「これが、今のベストだ」
⸻
夜。
宿舎の廊下は、昼よりも静かだった。
発表は、翌朝。
それは全員が知っている。
だからこそ、今は誰も踏み込まない。
203号室。
九条はベッドに仰向けになり、天井を見ていた。
「……落ちると思ってる?」
隣のベッドから、一ノ瀬の声。
九条は、正直に答える。
「正直、半々です」
「ふうん」
一ノ瀬は、それ以上追及しない。
「今日の打席」
「君、夏目のこと見てなかったな」
九条は、少し考えてから言う。
「……はい」
「見るの、やめました」
一ノ瀬は、短く笑った。
「それでいい」
「見すぎると、バッティングが崩れる」
九条は、ゆっくり息を吐く。
「俺、ずっと……夏目を倒すことばっか考えてました」
「そうだろうね」
「でも、今日」
「初めて、“勝つために打つ”ってことが、分かった気がします」
一ノ瀬は、天井を見たまま言う。
「それが代表だ」
「誰を倒したかじゃない」
「どう勝ったかだ」
しばらく沈黙が流れる。
九条は、目を閉じて呟く。
「……明日、呼ばれたいっす」
「呼ばれるよ」
即答だった。
「今日の君は、ちゃんと“使える打者”だった」
その言葉に、九条の胸の奥が、じんわりと熱くなる。
同じ頃、201号室。
夏目は、ベッドに腰を下ろし、静かに手を握っていた。
投げていないのに、疲れている。
(……始まったな)
選ばれる側として。
使われる側として。
そして、
“一人で勝たなくていい場所”として。
明日、名前が呼ばれる。
それがゴールじゃないことを、
この合宿に来て、ようやく理解し始めていた。
代表は、もう“怪物の集まり”じゃない。
勝つためのチームが、形になろうとしていた。




