お前にだけは……
間違っているわけではない。
私は聖女で、今の王国では替えの利かない存在だ。対してルキウス様は子爵家の三男で、戦場で限られた治癒の力に優先順位をつけるなら、きっと殿下たちの判断は正しい。
「敵本隊が動いた!」
兵士の声が飛び、アルベルト殿下がすぐさま振り向いた。
「ラインハルト!」
「行ける!」
「セドリックも来てくれ!」
「承知しました」
殿下は最後にもう一度だけ私を見た。
「リリア、今度こそここから動くな。護衛も増やす。ルキウスの治療は任せたが、決して無理はするな」
「殿下!」
呼び止める間もなく、三人は再び戦場へ駆けていった。
戦いはまだ終わっていない。三人が必要とされている場所はここではなく、主力同士がぶつかっている前線なのだ。
その判断は正しい。私にもそれくらいは分かる。
なのに、なぜだろう。
胸の奥に残った小さな違和感だけが、どうしても消えてくれなかった。
「……ほらな」
かすかな声が聞こえた。
「え?」
ルキウス様が、苦しそうに笑っていた。
「何がですか!」
「別に……」
「喋らないでください!」
私はすぐに駆け寄り、傷の状態を確かめた。槍は深く刺さっている。このまま治癒魔法を使えば、槍まで身体の中へ閉じ込めてしまう。
「槍を抜きます」
「やめろ」
「何を言ってるんですか!」
「俺に使うな」
「このままだと死にますよ!」
「他を治せ」
「あなた以上の重傷者はここにいません!」
「なら、治癒術師を呼べ」
「そんな時間はありません!」
私はヤンス様とゴワス様を振り返った。
「ヤンス様、ルキウス様の肩を押さえてください!」
「はいでやんす!」
「ゴワス様は腰をお願いします!」
「任せるでごわす!」
二人がすぐにルキウス様の身体を押さえ込む。
「おい、待て!」
「待ちません!」
「平民!」
「動かないでください!」
私は槍の柄を握りしめた。
「抜きます。絶対に暴れないでください!」
「……好きにしろ!」
「いきます!」
一気に槍を引き抜いた瞬間、傷口から血が噴き出した。
「《ヒール》!」
間髪入れずに両手を押し当てる。白い光が傷口を覆い、裂けた肉を少しずつ繋ぎ合わせていった。
「やめろ……」
「嫌です」
「魔力を使うな……」
「今さら何を言ってるんですか。黙って治されてください!」
ルキウス様の呼吸が荒くなる。
「……嫌だ」
「何がですか」
「お前にだけは……」
「喋らないでください!」
「お前にだけは……治されたくなかった……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすっと冷たくなった。
この人は、そこまで私を嫌っているのだろうか。
「……そこまでですか」
治癒を続けながら、思わず問いかけていた。
「そこまで、平民が嫌いなんですか?」
「違う……」
「私の魔力で治されるのも嫌なんですか?」
「違う!」
ルキウス様が突然声を荒らげた。
驚いて顔を見る。
その目から、一筋の涙が流れていた。
「力のない己に腹が立つんだ……!」
「……え?」
「お前は、その象徴なんだ……!」
何を言われているのか分からなかった。
ルキウス様は苦しそうに呼吸を繰り返しながら、それでも止められなくなったように言葉を吐き出していく。
「なんで、訓練もろくに受けていない平民が……こんな場所で命を狙われている……!」
「私は聖女だから――」
「だから、それがおかしいと言っている!」
声と一緒に、もう一筋の涙が頬を伝った。
「聖女になったら、昨日まで戦い方も知らなかった人間を戦場に出していいのか? 力があるから、役に立つからと、それだけで命を懸けさせていい理由になるのか!」
ルキウス様の手が地面を強く掴む。
「そんなものは、理由にならないだろう……!」
私は何も言えなかった。
「お前は平民だ」
今まで何度も聞かされた言葉だった。
けれど今は、まるで違う意味を持って聞こえる。
「守るべき民で、愛すべき領民だ。畑を耕して、店を開いて、家族と飯を食って……それでいいんだ」
「ルキウス様……」
「剣を習う必要なんかない。魔物の殺し方なんて知らなくていいし、血の匂いなんて覚える必要もない」
ルキウス様は痛みに耐えるように歯を食いしばった。
「そういうものを背負うのは、貴族だけで十分だ……!」
私は治癒魔法を続けながら、その言葉を聞いていた。
「俺たちは、そのために領民から税をもらっている。領民が作った食料を食い、領民が働いた土地で暮らし、その金で剣を習って、魔術を学ぶ」
白い光の下で、深かった傷が少しずつ閉じていく。
「なら、こういう時に前に立つのは俺たちだろう……!」
昨日までルキウス様から浴びせられた言葉が、頭の中へ次々と戻ってきた。
『おい、平民! 下がれ!』
『なんで貴様みたいな平民が、こんな前線まで出ている!』
『訓練もままならない平民が、戦場を当然みたいな顔で歩き回っているのが気に入らない!』
私はずっと、この人に見下されているのだと思っていた。
「……私を、馬鹿にしていたんじゃないんですか」
「馬鹿にはしている」
「してるんですか!?」
「愚図だからな……」
「この人は!」
思わず声を上げた。
腹が立つはずなのに、同時にどうしてか泣きそうにもなった。
「じゃあ……平民って呼んでいたのは」
「守るべき相手だからだ」
ルキウス様は迷うことなく答えた。
「俺が前に立つべき相手だ」
その言葉の意味を飲み込むまで、少し時間がかかった。
「なのに俺は、お前を庇って怪我をして……」
「それは私を守ったんでしょう?」
「その結果、お前に治されている」
ルキウス様は悔しそうに、傷へ触れている私の手を見た。
「お前の魔力を使わせている。これでは、俺がお前に守られているみたいじゃないか……」
そこでようやく、『お前にだけは治されたくなかった』という言葉の意味が分かった。
平民だから嫌だったのではない。
むしろ、まったく逆だった。
平民だからこそ守るべき相手だと思っていて、その相手の力で自分の命を繋いでもらうことが、どうしようもなく悔しかったのだ。
「……面倒くさい人ですね」
「なんだと……」
「ものすごく面倒くさいです。そんなこと、普通に言ってくれなければ分かりませんよ」
「平民……」
「はい」
「帰れ……」
「嫌です。治療が終わるまでは帰りません」
「目障りだ……」
「知りません」
「お前を見るたびに腹が立つ……」
「私に?」
「俺にだ……!」
その返事を聞いた瞬間、胸が強く鳴った。
「お前一人を後ろへ下げる力もない。王太子殿下に意見を聞かせるだけの実績もない。そのうえ、今日の伏兵にも気づけなかった」
ルキウス様は力なく目を閉じる。
「何が貴族だ。何が守る側だ……」
「でも、私を守ってくれました」
そう告げると、ルキウス様はゆっくり目を開いた。
「私が今ここで生きているのは、ルキウス様のおかげです。それまで否定したら、本当にただの面倒くさい人ですよ」
「……それでも足りない」
「欲張りですね」
「貴族様だからな……」
「自分で言います?」
「うるさい……」
弱々しい声だったけれど、少しだけ口元が緩んだように見えた。
私も、つられるように笑ってしまった。
「ルキウス様!」
そこへヤンス様が涙目で覗き込んでくる。
「死なないでほしいでやんす!」
「死んでない……」
「ワイのせいでごわす……。ワイがもっと周りを見ていれば……」
ゴワス様も、いつもの呑気な顔からは想像できないほど沈んでいた。
「違う。ゴワス」
「でも――」
「盾役が後ろから敵を通してどうする。次は通すな」
「……はいでごわす」
「ヤンス、お前もだ。索敵が遅れた。次はもっと早く見つけろ」
「……はいでやんす!」
「俺も同じだ。判断が一番遅かったのは俺だからな」
三人の誰も、「仕方なかった」とは言わなかった。
誰か一人へ責任を押しつけることもなく、自分に足りなかったものを確かめて、次はどうするかを考えている。
昨日までなら、単なる変な三人組にしか見えなかったはずなのに、今は少し違って見えた。
「リリア」
「はい」
また名前で呼ばれた。
今日、二度目だった。
「もういい。魔力は?」
「まだ半分以上あります」
「……本当か?」
「本当です。だから大人しくしてください」
「なら……もう少しだけ頼む」
「最初からそう言えばいいんです」
「調子に乗るな、平民」
「やっぱりその呼び方はやめないんですね」
「平民は平民だ」
「はいはい」
以前なら確実に腹を立てていたはずなのに、今度は不思議とそうならなかった。
治療を終えた頃、前方から勝鬨が聞こえてきた。どうやらアルベルト殿下たちが、敵本隊を退けたらしい。
しばらくして、御三家もこちらへ戻ってきた。
「リリア!」
アルベルト殿下はやはり真っ先に私のところへやって来る。
「無事か? 魔力は残っているか?」
「はい。まだ大丈夫です」
「そうか、よかった」
殿下が安心したように息を吐くと、ラインハルト様も笑った。
「本当に肝が冷えたぞ。聖女の君に何かあったらどうするつもりだったんだ」
「……ありがとうございます」
優しい人たちだ。
それは疑っていない。
この人たちは本当に私を大切にしてくれているし、その気持ちに嘘があるとも思わない。
「ルキウスも助かったようですね」
セドリック様が横たわるルキウス様へ視線を向けた。
「はい。傷は塞がりました」
「それはよかった。では、リリアさんは休んでください。聖女の魔力をこれ以上消耗させるわけにはいきません」
「はい」
何も間違っていない。
そのはずなのに、私は返事をしながら一瞬だけルキウス様を見ていた。
目が合う。
「なんだ」
「別に」
「変な顔をするな」
「してません」
「している」
「うるさいです」
「それはこちらの台詞だ」
今度は、自然に笑えた。
その日の夜、寝台に入ってからも、私は今日のことを何度も思い返していた。
アルベルト殿下、セドリック様、ラインハルト様。学院で《華の御三家》と呼ばれている三人は、強くて、優しくて、いつも私の身体を気遣ってくれる。
あの人たちは、私が聖女だから大切にしてくれている。
それは当然のことで、決して悪いことではない。聖女として力を得た私を必要としてくれて、守ろうとしてくれることは、とてもありがたいことだと思っている。
けれど、ルキウス様は最初からずっと私を平民と呼んでいた。
その言葉が嫌だった。
身分を理由に見下され、馬鹿にされているのだと思っていた。
『守るべき民だ』
『愛すべき領民だ』
まさか、そんな意味で使っていたなんて思いもしなかった。
「……分かりにくすぎます」
思わず、誰もいない天幕の中で呟いてしまう。
口は悪いし、態度も悪い。すぐに私を愚図と呼ぶくせに、王子殿下へ真正面から逆らえるほど勇敢なわけでもない。格好悪いところなら、いくらでも挙げられる。
それなのに、私へ向けられた槍の前には迷わず飛び込んできた。
自分が血まみれになっているというのに、悔しくて涙を流した理由は、自分が傷ついたことではなかった。
私のような平民が戦場に立っていることだった。
「……変な人」
少し前までなら、このあとに迷うことなく「嫌いです」と続けていたはずだ。
今日だって、そう言えばいい。
あれだけ散々なことを言われてきたのだから、嫌いだと言ったところで何もおかしくない。
けれど、口を開いてみても、その言葉だけが不思議なくらい出てこなかった。
代わりに思い出してしまうのは、槍に貫かれたルキウス様が初めて私を「平民」ではなく、「リリア」と呼んだ時の声だった。
苦しそうで、掠れていて、格好いい呼び方でも何でもなかった。
たった一度、名前を呼ばれただけ。
それなのに、その声は胸の奥に小さな棘のように残っている。
抜いてしまいたいと思うほど痛いわけでもないくせに、ふとした瞬間にそこにあると気づいてしまう。意識しないようにすればするほど、かえって存在がはっきりしてくるような、妙な引っかかりだった。
私は布団を少しだけ引き上げ、目を閉じる。
その棘がいったい何なのか。
今夜は、まだ考えないことにした。




