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義妹の病を癒していたのは、私でした 〜離縁の翌日から、奇跡は止まりました〜  作者: 秋月 もみじ


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第1話 三度目の延期


 三度目の延期を告げる手紙は、夫の几帳面な筆跡で書かれていた。


 私は便箋を膝に置いたまま、しばらく窓辺で動けなかった。庭の奥に立つ五百年の古樹が、朝の風で枝先を揺らしている。嫁いだ年の春に、ウィルフリード様が「あれが我が家の樹だ」と教えてくださった樹だった。


「義妹の体調が良くない。観劇は次の機会にしよう。君なら分かってくれるだろう」


 そう書かれていた。


 次の機会、という言葉に、私は何度同意してきたのだろう。指を折ろうとして、途中で数えるのをやめた。冷めた紅茶の表面に、薄い膜ができている。


 嫁いだばかりの頃、彼はまだ私の名前を覚えてくれたばかりで、馬車の踏み台から手を取ってくださった。手袋越しでも分かる、丁寧な力の入れ方だった。あの時の彼は、確かに私を「妻」として見ていた。


 あれから四年が経っている。


 手紙を文箱にしまおうとして、私は手を止めた。封蝋がほんの少し溶け切らずに歪んでいる。急いで書いて、急いで送らせた手紙の癖だった。


「奥方様、お茶を淹れ直しましょうか」


 老侍女頭の声に、私は顔を上げた。


「ええ、お願い」


 そう答えてから、私は冷めた紅茶のカップを彼女に渡した。彼女の指がカップを受け取る前に、一拍だけ止まったのを、私は見ないふりをした。



 夕方、ウィルフリード様が屋敷に戻られた。


「エマ、ちょうど良かった」


 玄関広間で出迎えた私に、彼は紙包みを差し出した。中には桐の箱があり、その中には繊細な意匠の首飾りがあった。私の好みからは一寸ずれている。だから、私への贈り物ではない。


「リリーシュの誕生日に渡そうと思って、王都で買ってきたんだ。あの子に直接渡すと、また遠慮するだろう。君の寝室で預かっておいてくれないか。当日まで」


 私の、寝室で。


「君なら大切に保管してくれる。リリーシュも、義姉上の手から渡される方が嬉しいだろう」


 義姉上。


 その呼び方は、リリーシュ様が私を呼ぶ時の呼称だった。けれどリリーシュ様は、嫁いで四年が経っても、私を「お姉様」と呼んだことはなかった。


「承知いたしました」


 私は箱を受け取った。


 寝室に運ぶと、自分の宝飾箱の蓋が薄く埃をかぶっていることに気づいた。最後にこの箱を開けたのが、いつだったか思い出せない。リリーシュ様への箱を、私はその隣に置いた。私の箱より、新しく、大きく、磨かれている。


 その並び方を見て、私は短く笑った。


 誰にも見られていない場所で笑うのは、久しぶりだった。



 夕食の前、姑のマルガレーテ様の私室から、低い声が聞こえてきた。


「ウィルフリード、いい加減になさい」


 通りすがりの私は、思わず足を止めた。立ち聞きするつもりはなかったが、廊下の角を曲がる勇気もなかった。


「奥方様への礼を、あなたは欠いています」


 息子に対する母の声だった。叱責ではあったが、感情で叫ぶ声ではなかった。長く我慢してきたものが、抑えた声の底で揺れていた。


「母上は心配しすぎです」


 ウィルフリード様の声は、いつもと変わらなかった。


「リリーシュは病弱です。エマは強い人だ。彼女なら分かってくれる」


 私は、廊下の壁に手をついた。


 冷たい大理石の感触が、指の腹に伝わってくる。それを支えにして、私は来た道を戻った。マルガレーテ様の声が背中の方で続いていたが、ここから先は私が聞いてはならない領域だった。


 階段を降りる途中で、私は振り返った。


 誰もいない廊下の奥で、姑の部屋の扉の下から、灯りが細く漏れていた。



 夜、書斎にいた夫のもとへ、神殿の使者が訪れた。


「神官長様より、奥方様にお目通りを願いたいとのことでございます」


 使者の手から、夫が書状を受け取った。


 銀の月の紋章が押された、神殿の正式な書状だった。


「ああ、預かろう。妻には明日伝える」


 夫はそう答えて、書状を文箱にしまった。


 私は書斎の入口に立っていたが、夫は気づかなかった。気づいたとしても、私を呼んだとは思えなかった。


 使者の方が、私に深く頭を下げた。私は会釈で返した。それだけで、何かが伝わった気がした。


 夫の文箱には、いつから書状が溜まっているのだろう。


 その時の私は、まだ知らなかった。



 寝室に戻り、私は窓辺に立った。


 夜の庭に、五百年の古樹が立っている。月の光を受けて、太い幹がぼんやりと白く浮かんで見える。嫁いだ年の春、ウィルフリード様は「この樹は、ロッシュフォール家と一緒に生きてきた樹だ」と仰った。私はその時、彼が誇らしげに語る家のことを、自分も大切にしようと思った。


 今夜の樹は、いつもと変わらないように見える。


 ただ、葉先が一枚、私の見ている前で落ちた。


 風はなかった。


 私は窓を閉じた。


 寝台に入る前、リリーシュ様への首飾りの箱に目を向けた。蓋の上に、私の宝飾箱から落ちた埃が、わずかに積もり始めていた。


 夫の文箱に滑り込んだ書状の封蝋に、銀の月の紋章が静かに揺れていた。あの紋章が何を意味しているのか、私はその夜、知るすべを持たなかった。

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