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戴冠前夜、塔は明るすぎる

戴冠前夜の王都は、夜ではなかった。


 中央塔から降る白い光が、屋根も石畳も人の顔も、同じ色に塗り潰している。道は明るい。影はない。けれど東夜市から北門へ戻る角で、荷車の車輪が二度続けて段差へ落ちた。


「見えているのに、踏み外すんです」


 荷車を押していた若い職人が、恥ずかしそうに手を握った。指の節が擦りむけている。そばでは、豆粥屋の老人が空の椀を籠に戻し、西薬房のミナが青灯の硝子を布で包んでいた。


「暗いのではなく、全部が同じ明るさなんですね」


 ミナが薬瓶を一つ持ち上げる。白光の下では、中身の青薬と薄い水薬の色が区別できなかった。


「薬棚の青灯なら、瓶の色だけを残します。帰還路の足元灯なら、段差の影だけを残します」


 セオ・ランベルトは中央塔を見上げた。


 明るすぎる。


 それは、灯りの量の問題ではなかった。用途が消えている。


 王宮は王都を照らしているのではない。王都の小さな灯りを、何に使われていたか分からない白へ混ぜている。



 北門詰所の前には、戴冠式用の臨時掲示板が立っていた。


 市民向けの説明には、こう書かれている。


 王宮中央塔光輪、総結界安定のため生活灯火余剰分を一括補助へ編入。


 余剰分。


 その下に並ぶ小さな欄を、セオは一つずつ読んだ。


 西薬房、夜薬棚青灯十三本。

 北帰還路、足元灯四十七歩分。

 パン窯赤灯、朝焼き第一炉。

 東孤児院、粥粉荷車標識灯。

 東夜市、貸し灯り返却分一本。


 ミナが青灯を胸に抱えた。


「私たちが戻したものばかりです」


「戻したからです」


 セオは掲示板の端を指で押さえた。紙の下に、白い粉のような光がこびりついている。昨日、貸し灯りの札に付いていたものと同じだ。


「未完了を生活側へ戻すと、中央塔の帳尻が合わなくなる。だから王宮は、戻された灯りをもう一度“余剰”として編入し直している」


「そんな……。余ってなんかいません。夜薬も、帰る道も、パン窯も、子どもの粥も」


 ミナの声が震えた。


 セオは頷く。


「はい。余っていません。全部、誰かの朝まで予約されています」


 その時、掲示板の前に白い儀礼服の役人が二人立った。胸には光輪局の銀章。彼らはセオを見て、露骨に眉を寄せる。


「元夜勤係が、また余計な未閉鎖札を増やしているのか」


「余計ではありません。未完了です」


「民は明るい光を見れば安心する。戴冠前夜に街角の青灯だの粥粉灯だのを優先すれば、中央塔の光輪が弱く見える。国の不安になる」


 役人の言葉には、嘘だけではない焦りがあった。


 王都は戴冠を待っている。王宮は、白い塔を明るく見せたい。大きな光で不安を塗り潰したい。


 だが、塗り潰された足元で、職人は段差を踏み外した。塗り潰された棚で、薬瓶の色は読めない。


「安心は、白く塗ることではありません」


 セオは夜勤係の小さな鉛筆を取り出した。


「戻れることです。飲む薬を間違えないことです。朝の炉が開くことです。借りた人が温かいものを口にしてから灯りを返せることです」


 役人が鼻で笑う。


「それを全部書いていたら、戴冠式は始まらない」


「始めてはいけない条件を、始められる形に折り畳むのが危険なのです」



 セオは掲示板の一行目へ、青い保留線を引こうとした。


 しかし、鉛筆の先が紙に触れる直前、線が白く弾かれた。


 王宮中央塔の光が、掲示板そのものを照らしている。生活側の追記を受け付けない。セオの夜勤記録より上位の儀礼書式が、紙面を固定していた。


「……通らない」


 ミナが息を呑む。


 セオは一瞬だけ目を伏せた。


 万能ではない。


 彼の鉛筆は、上位書式を破れない。夜勤係が読めるのは、灯りの用途順序と、閉じてはいけない未完了だけだ。


 ならば、上から書き換えられない場所に書くしかない。


「トマ」


 昨日の貸し灯りを借りて迷った少年が、夜市の老人の後ろから顔を出した。


「はい」


「あなたの貸し灯りは、昨日どこで閉じましたか」


 トマは椀を両手で持つようにして答えた。


「東夜市です。灯りを棚へ戻して、ぼくが帰って、豆粥を飲んでから」


「その順番を、あなたの字で札の裏へ書けますか」


 少年は大きく頷いた。


 北門の老兵が、自分の帰還札を外す。


「俺も書く。北門三番段差、白光下では影なし。足元灯なしでは荷車通行未完了」


 パン屋の若主人が火皿を掲げた。


「第一炉、白光では火加減読めず。赤灯なしでは朝焼き未完了」


 ミナが青灯の布を開く。


「西薬房、青灯なしでは夜薬棚未完了。瓶色確認まで投薬しません」


 掲示板の表には書けない。


 だから彼らは、それぞれの札の裏へ書いた。


 貸し灯り札。

 帰還札。

 火皿札。

 薬棚札。


 白い儀礼書式の外側で、生活側の小さな字が増えていく。


 セオはそれらを青紐で一つにつないだ。


「中央塔光輪への編入を、生活到達条件未確認として保留します」


 役人の顔色が変わった。


「そんな街角の札で、中央塔が止まるものか」


「止めるのではありません」


 セオはつながれた札を掲示板の下へ掛けた。


「数え直すだけです」


 その瞬間、中央塔の白い光が一度、赤く脈打った。


 東夜市の貸し灯り一本。

 北門三番段差の足元灯。

 西薬房の青灯。

 パン窯の赤灯。


 それぞれが、白い光の中から少しずつ色を取り戻す。


 大きな結界光が弱くなったのではない。


 王都を守っていた本当の灯りが、名前と用途を取り戻しただけだ。


 職人の荷車が、今度は段差を越えた。ミナは青薬と水薬を間違えずに分けた。パン屋の火皿には、朝のための赤が残った。


 小さな勝利だった。


 だが、中央塔の上で鐘が鳴った。


 一つ。


 戴冠式開始まで、一刻。


 白い光が再び集まり、掲示板の最下段に新しい行が浮かび上がる。


 生活灯火全域、戴冠本番光輪へ一括再徴収。


 対象欄には、昨日閉じなかった東夜市の貸し灯りも、今日保留した北門の帰還札も、西薬房の青灯も、パン窯の赤灯も、まとめて白く並んでいた。


 さらに、最後の欄。


 旧夜勤係セオ・ランベルト確認印、追記不要。


 ミナが声を失う。


 セオは消えかけの青灯に、いつものように小さく声をかけた。


「おつかれ。朝まで、もう少しだ」


 それから、中央塔を見上げる。


 塔は明るすぎる。


 その明るさが王都の夜を全部閉じようとしているなら、次に書くべき札は一つだけだった。


 王都の夜を、まだ返してもらっていません。

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