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儀礼局の光輪台帳

北門の前で、夜明け待ちの荷馬車が三台、動けずに並んでいた。


 荷台には空の薬瓶、パン屋へ返す粉袋、夜勤明けの鍛冶職人が抱えた工具箱。どれも、朝になればただの荷物に見える。けれど夜の終わりには、誰かが家へ帰り、誰かの店が開き、誰かの薬棚が次の一晩を迎えるための順番だった。


「門灯の一晩分が、また足りません」


 薬師見習いのミナが、青い灯火札を握りしめて言った。寝不足で目の下に影がある。それでも彼女は、札を落とさなかった。


 門番の老兵が申し訳なさそうに兜を脱ぐ。


「すまん、セオ。北門結界灯は、今朝から『総結界転用完了』扱いだ。俺たちの手元では戻せん。儀礼局の光輪台帳に載ったら、もう王宮のものだとさ」


 城の中央塔を見上げると、戴冠式用の白い光輪が、夜明けの空にまだ明るく浮かんでいた。


 パン窯の赤灯も、薬棚の青灯も、帰還路の足元灯も、一度は人の生活へ戻したはずだった。その灯りの残り香が、今は中央塔の上で、誰の手にも届かない飾りになっている。


「総結界、ですか」


 僕は門番の机に置かれた写しを開いた。


 光輪台帳。

 その表紙には金の縁取りがあり、下級夜勤係が触れるには場違いなほど綺麗だった。


 けれど、綺麗な言葉ほど、夜にはよく人を迷わせる。


「セオさん、これ……あなたの名前です」


 ミナが指差した行には、確かに僕の名があった。


『旧夜勤係セオ・ランベルト確認済。生活灯火五系統、総結界光輪へ転用完了』


 確認者欄には、僕が王宮を追放された翌日の時刻が押されていた。


 胸の奥が、少しだけ冷えた。


 僕の名前が、僕の仕事を奪うために使われている。


「やっぱり、偽造ですか?」


 ミナの声が震えた。門番たちも息を呑む。


 僕は首を横に振った。


「偽造かどうかを先に決めると、向こうの言葉で争うことになります。僕の仕事なら、まず、この印が何を閉じる印だったのかを読みます」


 光輪台帳の列を、ひとつずつ指でなぞる。


 一列目、灯火残量。

 二列目、生活維持予約分。

 三列目、夜勤者引き継ぎ名。

 四列目、転用先。

 五列目、完了印。


「『総結界転用』という言葉だけ見ると、王都全体を守る大きな仕事に見えます。でも実際には、薬房の棚、帰還路、パン窯、孤児院の朝粥、北門の夜明け。この五つの灯りを集めただけです」


「だけ、って……それ全部、なくなったら困るものじゃないですか」


 ミナが小さく怒った。


「だから、二列目が必要なんです。生活維持予約分。今は使っていなくても、朝まで誰かが頼っている灯りは、余りではありません」


 僕は二列目を指した。


 空白だった。


「そして三列目。夜勤者引き継ぎ名。灯りを移すなら、誰がその夜の責任を次へ渡したかを書かないといけない」


 そこも、空白だった。


 門番の老兵が眉を寄せる。


「だが、最後に完了印はあるぞ」


「完了印は、偉い人が押す飾りではありません」


 僕は、押された自分の名前を見た。


「本来は、生活が閉じていないと確認した夜勤者が押す最後の灯りです。薬棚が冷えている。帰還路が消えていない。パン窯の朝火が残っている。孤児院の荷車が届く。北門の一晩分がある。そこまで見て、初めて押せます」


 中央塔の光輪が、白く強く瞬いた。


 僕は息を吸う。


「僕の名前で押されています。でも、僕の仕事なら、この欄を空白にして完了とは書きません」


 門番たちの顔つきが変わった。


 ただの追放者の言葉ではなく、夜を閉じないための手順として、彼らが聞いてくれたのがわかった。


「では、どうする。儀礼局の台帳を止める権限は、こちらにはない」


「止めません。閉じさせないだけです」


 僕は門番の予備札を一枚借り、青い紐を通した。


『生活維持予約分未確認。北門一晩分、未閉鎖』


 そう書いて、光輪台帳の写しに重ねる。


「完了印を消すと、証拠も消えます。だから残します。その代わり、生活側の未閉鎖札を付ける。門番長、北門の一晩分だけ、儀礼余剰ではなく帰還路確保分として戻してください。これは転用の拒否ではありません。完了条件が足りない行の、一時保留です」


 老兵は数秒だけ迷い、それから、机の下から小さな灯火瓶を取り出した。


「……俺は門番だ。儀礼はわからん。だが、帰れない者を門前に積むのは、門の仕事じゃない」


 灯火瓶の青が、北門の足元へ流れた。


 荷馬車の轍が、淡く照らされる。


 鍛冶職人が工具箱を抱え直し、粉袋を積んだ少年が大きく息を吐いた。


「通れる……?」


「ああ。名を言って、帰還札を閉じてから通れ」


 門番の声に、列が動き出した。


 ミナが僕の横で、青い札を両手で持ち直す。


「セオさんの名前、責任逃れに使われたんじゃないんですね」


「使われました」


 僕は光輪台帳を閉じずに答えた。


「だから、閉じさせないんです。名前は、誰かの夜を終わらせるための飾りじゃない。誰の灯りをまだ見ているかを示すためにあります」


 そのとき、台帳の裏表紙から、薄い紙片が一枚落ちた。


 古い夜勤者名簿の写しだった。


 けれど、名前の欄は不自然に削られている。


 僕の名前だけではない。


 薬房、橋守、東孤児院、北門、そして中央塔。かつて生活灯火を確認していた夜勤者たちの名が、まとめて白く削られていた。


 最後の空欄には、日付だけが残っている。


 僕が追放された、その夜のものだった。


 ミナが息を止める。


「セオさん……これ、あなた一人の話じゃありません」


 中央塔の光輪が、朝の空でまだ眩しく笑っていた。


 僕は未閉鎖札をもう一枚取り出した。


「はい。次は、消された夜勤者たちの名前を、夜へ戻します」

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