みんなの攻めが、すごくてね
終業間際の会社の雰囲気はどこかソワソワしている。
みんな定時には帰らないくせに、終業の時間は意識しているようだ。
今日は珍しく予定がある。
会社が勝手に設定した水曜日のノー残業デーはないが、私は今日定時で失礼することに決めていた。
あと十分。
今日やらなければならない事は、やり終えた。
あとはメールの整理だけ。
残りは明日の朝やればいい。
新卒でここに配属された時から、なぜか会社の鍵を持たされていた。
それは期待や信頼からのものではなく、通過儀礼のようなものだった。
明日の朝早く来ても、みなし残業として給与に含まれているため一切の給与アップは期待できないし、誰からも評価されるわけではない。
ただ、鍵をもらったという事はそんな事なんだと思う。
そんな事を考えると、どんどん思考がマイナスになっていくのを感じる。
「ダメダメ」
自分の中でマイナスの空気を振り払う。
今日は楽しい1日にして終わるんだから。
提示の鐘は鳴らない。
ただパソコンの時刻表示だけが教えてくれる。
菌体システムもそこまで賢いものではないので、正直どの時間帯に仕事をしていてもアラームが鳴るわけでもなく、ポップアップが表示されるわけでもなく、電源が入らなくなる状態なんてならない。
上司にも通知は飛ばないし、ある意味で仕事天国なのだ、ここは。
大手企業であればそんな事はないらしい。
去年寿退社をした大学の友人が言っていた。
今は、あの子は一児の母だっけ?
育児と仕事どっちが大変なんだろう。
私には一生わからないかも知れない。
だって、恋人がいないんだもの。
子供もいないんだもの。
そんなことを考えていると時計の時刻はすでに提示の十分を過ぎていた。
「いけない!急がないと」
できるだけ無駄のないようにパソコンの電源を落とした。
パタンっと小気味いい音が聞こえる。
カバンの中身を整理しつつ帰り支度を済ませる。
そして椅子の背もたれにかけてある紺色のジャケットを羽織って上司に向かって帰りの挨拶をする。
「お疲れさまです。お先に失礼します」
上司は驚いたような表情で画面からこちらに視線を移した。
「あれ、流山さん今日は早いんだね」
「そうなんです。ちょっと予定が」
「それはいいね。お疲れさま。気をつけて」
「ありがとうございます。失礼します」
ここで予定をあえて聞かないのは、モラルがある証拠だと千羽子は感じた。
これで「何?デートなの?」などと聞いてくる男性はデリカシーに欠ける。
そんな人上司でも恋人でも嫌だ。
少しだけ上司のことを見直して、千羽子はエレベーターが上階からやってくるのを待った。
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫だよ。オンタイム。さすが千羽子。他は少し遅れるって」
「そっか。みんな大変だね。早く終れるといいね」
夜に差し掛かり始めた新宿駅は人でごった返していた。
日本中の人口がこの新宿駅に集まったのではないかと勘違いしてしまうほどどこを見ても人ばかりだ。
地元の岩手では考えられなかった光景だ。
日本はまだまだ人口がたくさんいる。
少子化なんて本当は政府のデマなのかも知れない。
それはさておき、同期が予約してくれた店は意外にもすぐに見つけることができた。
銀座からの行きの電車で口コミサイトの評価を見たけれども、なかなかいいものだった。
隠れ家的なイタリアンレストラン。
こんな豪華な場所、楽しみでならない。
今日は久しぶりの同期会なのだ。
いつもはファミリーレストランなのに、今日はとても気合が入っているなと感じていた。
千羽子もソワソワとしてしまい、今日は綺麗めな格好を選んだ。
最後に開催されたのはいつぶりだろう。
記憶が定かではないが、おそらく四ヶ月ぶりくらいなはずだ。
その間に千羽子はずっと一人で夜を過ごしてきた。
同期は千羽子を入れて四人いる。
穴川ちゃん、小倉台ちゃん、千葉ちゃん。
全員名字で呼び合っている。
あだ名なんてない。
そんな気さくな間が千羽子は好きだった。
今いるのは、一番乗りで来た穴川ちゃん。
穴川ちゃんはとても真面目だ。
実は同期の新人賞はこの子がとった。
そして同期で一番初めに売り上げを出したのも穴川ちゃんだった。
どこからどう見ても真面目で優等生。
そういえば入社式の挨拶も穴川ちゃんだったな、とふと思い出した。
さすが会社の期待のエース。
遅刻なしで一番乗りとは、やっぱりさすがとしか言いようがない。
真ん中分けした前髪が顎のラインまであっていかにも聡明な雰囲気を高めている。
穴川ちゃんは大学時代の時から付き合っている人がいる。
先輩だそうで大手に勤めているらしい。
きっとこのまま安定して結婚というゴールは近いのかも知れない。
「ごめん〜今終わった〜疲れた〜」
次に到着したのは小倉台ちゃんだった。
この子はなかなか弾けている。
関東の出身らしいが、常に彼氏を切らしたことがない。
というか、彼氏がいる時期に次の彼氏を作ってしまうんだとか。
その出会いの場所もなんだか刺激的である時はクラブだったり居酒屋でたまたま隣の席に座った人だったりとその範囲は広い。
さらにいえば、小倉台ちゃんの今の彼氏が出会い系アプリで出会った人なのだそうだ。
「大丈夫だよ。私も今来たところ。穴川ちゃんが一番乗りだったよ」
「さすがだね穴川ちゃん」
小倉台ちゃんがカバンを置きながら話す。
軽々とジャケットを脱いだその下にはノースリーブの大胆ファッションが待っていた。
さすがだよ、小倉台ちゃん。
私はそんな露出が多い格好はできないよ。
今日、レースのスカートを履くかだででも一晩悩んだのに。
「そんなことないよ。たまたま会議とかお客さま訪問なかっただけだから」
「いいな〜。私なんて飛び込み営業ばっかりで、今日も収穫なしか〜と思ったら最後のお客さんが結構食いついてきてくれて。再訪問で次回契約かも。ラッキー」
「そんなこともあるんだね。すごい」
「あ〜喉渇いた!いっぱい話すと疲れるよね。先に始めちゃう?千葉ちゃんはもう少しかかるってさっきチャットで言ってたよ」
「千葉ちゃんはいつも遅刻するからね」
「彼女にとって集合時間が支度を始める時間だから」
ハハハとみんなで笑った。
千葉ちゃんは遅刻が得意だ。
集合時間にきっちりときた試しがない。
しかしそれはプライベートだけで仕事はきっりとこなす。
穴川ちゃんの次に売り上げを出したのは千葉ちゃんで、きっと今年度は同期でMVPを取るはずだ。
彼女は入社してからずっと付き合っている人がいる。
それは私たちの同期の男子である。
まさかそこが、という組み合わせだったが、お互いにしかわからないことがあるのだろう。
今では安定の円満カップルだ。
恋人同士というよりも友達同士に似たような感覚を与えてくれる心地よい二人だ。
喧嘩も特にないということだから、きっとこのまま次のステップに進むのだろう。
そうだ。
今日のこのメンバーで、恋人がいないのは私だけだ。
そんなことを気にするのは私だけなのだが。
どうしても、そのレッテルだけは自分で剥がすことができなかった。
でも、やっぱり誰でも言い訳じゃない。
エリートマンでも道連れで出会った人でも友達みたいな彼氏でもない。
きっと私自身が背伸びをしなくても連れ合ってくれる人がいい。
千羽子は自分の中に生まれたモヤモヤを振り払って、初めのドリンクを注文した。
「乾杯!」
金色に輝く液体を讃えるガラスの器が四つぶつかり合って、いい音がした。
全員がビール好きとはなかなか息が合うメンバーだと思う。
ファーストオーダーを注文した直後に、千葉ちゃんがゆっくりとしたペースでお店にやってきたのでちょうど乾杯に間に合うことができた。
長いロングヘアを片側に寄せて、ふうと息をついて席にすわった。
何ともマイペースな人だ、と思ったけれども千羽子はこの千葉ちゃんのこの感じが好きだった。
三人いる同期の中でも特に遊ぶ回数が多かった。
それは千葉ちゃんと私の住んでいる場所が近いからかも知れない。
私が北千住駅で、千葉ちゃんは南千住駅。
運命のように同じ路線でつながった。
定期券内で貧乏的に遊ぶことが多い私にとって、千葉ちゃんが定期券内にいてくれたのは幸いだった。
たまに千葉ちゃんの彼氏も交えて遊んだいた。
かつては。
「千葉ちゃん、また上司に捕まってた?」
「うん。なんか課長絶対不倫してるよ。なんか匂わせているっていうか、変に余裕ぶってて。”不倫してるんですか?”って聞いてほしい見たい。ウケるよね。早めにオフィス出て一服してからこようと思ったのに喫煙所にまでついてきてさ。それで抜け出せなかった」
「あ〜あの課長ならやりかねないね」
「不倫って本当にあるんだね」
「奥さんいるのになんで不倫するんだろう」
「寂しいから?」
「奥さんいるのに?」
「奥さんいるからだよ」
「え〜どういうこと〜」
「優越感というか、背徳感というかそんな感じかな」
「わかんない〜」
「わかんないよ。だって不倫してないんだもん」
開口一番のネタが不倫とは私には刺激的すぎた。
恋人がいないのに不倫なんてどこの国の話だ、と感じた。
けれども一瞬頭をよぎったのは実の母の不倫だった。
あんなに仲が良かったように見えた夫婦も今は離婚状態だ。
きっとお父さんとお母さんが別れた理由の一つとして不倫というカードもあるかも知れない。
それはもう当事者にしかわからないことだし、今更詮索するつもりもないし、どうでもいいけれども、意外と身近に不倫はあるのかも知れないなと感じた。
「流山ちゃんは?」
ぼーっと三人の話を聞きながら岩手にいる母とどこか、確か関西にいる父のことを思い出していた。
「流山ちゃん!」
小倉台ちゃんが顔を覗き込んで呼びかかけた。
一瞬で我に返り、現実に意識が戻ってくる。
「え、あ、ああ。私?」
「そうだよ。ぼーっとしてどしたの?仕事しすぎなんだよ。人事から警告メール来たんでしょ?」
「うん。そうなんだ。三六協定越しちゃって」
「流山ちゃんの部署大変そうだよね。でも新規部署立ち上げってかっこいいね」
「うんうん。なかなかできないしね。すごい」
「ありがとう。でもやることいっぱいで」
そうなのだ。
私がいる部署は新規立ち上げのまだ若い部署なのだ。
元々は同期は全員入社時は同じ部署だった。
それがいつしか人事異動の波にのまれ、今では全員違う部署・違うオフィスになった。
仕事にくすぶっていたこともあり、私はいまの新事業部に行くことになった。
備品の一つもなく、ボールペン一本の注文から始まる部署はいい経験だが、骨が折れることが多かった。
けれどもせっかくのチャンスもあり、頑張りを形にしたいと何とかここまでやってきたのだ。
「朝も早くて夜も遅い。家には根に帰るだけだし。こんなのだとみんなみたいに彼氏できないよ」
自分を皮肉った言い方だった。
しかしこの言葉が同期に火をつけた。
「流山ちゃん、彼氏は欲しいの?」
「うん、まあね。やっぱり飲みに行く人とかいたらもっと楽しいかなって」
「それならさ、アプリやてみれば?小倉台ちゃんみたいにさ」
「あ、それアリかも」
「ものは試しということでさ。女性ならタダだし、やり方なら教えるし、何ならコツとかも伝授するよ!」
小倉台ちゃんがノリノリで話に乗ってきた。
「今結構アプリで出会う時代なんだって。私のお父さんの会社の人でアプリで知り合って結婚した人いるって」
「えー!すごいね。運命じゃん」
「騙されたと思ってやってみようよ。あ、ホラ。このお店フリーWi-Fiある!さすが穴川ちゃんチョイスのお店。アプリ名わかる?私設定までやってあげよっか」
何ということだ。
これは、この流れは、アプリをやるまで帰られない流れじゃないか。
なんとなく心の中で後ろめたさを感じていた。
それにアプリをやっていることが恥ずかしかった。
それは友達がやっていることに対しては全く恥ずべきものはない。
ただ、私の自尊心の問題だった。
知られたくないが、ここまで来たら仕方がない。
変に断って同期の関係が悪くなるわけではないが、意固地になってもいいことはないのは確かだ。
正直にいうしかない。
「あー・・・実はね、そのアプリ、ダウンロードはしてみたんだ」
自分でも恥ずかしいくらい小さな声だった。
「え〜!すごい!仲間じゃん!」
小倉台ちゃんの食いつきは予想以上だった。
「結構あのアプリいい人多いよ。イケメンとか高収入とか」
「小倉台ちゃんは面食いだしね」
「私だって穴川ちゃんみたいに純粋な恋愛したかったよ。でも今出会いって難しいんだもん」
「まあ、どんな人と付き合うかわからないからね」
最後に言ったのは千葉ちゃんだった。
「それでそれで?誰かやりとりしている人いる?もしかしてもう秒読み彼氏?」
「いやいやいや。全然そんなことないよ。難しいねアプリって」
自分でも言うのはアレだが、嘘はつけない。
嘘をつくと、すぐに顔に出る。
長所であり短所である。
そんなこともあってなんとか話題を変えようとする。
「あ、みんなお腹減ってない?何か頼まない?」
「じゃあマリゲリータピザ!いつものファミレスよりは高いけど。それで、何人くらいとやりとりしてる?流山ちゃんきれいだからいっぱいメッセージくるでしょ」
「え、う、うん。メッセージはいっぱい」
尋問を受けているようだ。
緊張しているのか、珍しく同期と、誰かとお酒を飲んだので酔いが回っているのか鼓動が早い。
「それで?今何人と?」
小倉台ちゃんの質問攻撃を交わす手段を誰かに教えて欲しかったけれども無理そうだった。
穴川ちゃんも千葉ちゃんも興味津々の表情である。
小倉台ちゃんがみんなの質問を代わりにしているだけった。
「えーとね・・・」
適当な数字を言ってごまかすこともできた。
でもそれはなんだか相手に失礼な気がした。
私は自分の大切な人生の時間を使っている。
それは相手もそうだと感じてほしい。
ここはやかり言うしかない。
「・・・一人だよ」
「おー!すごいじゃん!今どんな感じ?チャットIDとか教えてもらった?あと本名とか聞いた?もしかしてもう飲みに行ったりした????」
キラキラ輝くみんなの瞳がこちらに向いている。
動物園の動物の気分だった。
けれども注目されること自体は嫌いではなかった。
むしろ、お酒の力もあって気持ちよかった。
「え?プライペートなことでしょ?そんなのまだまだだよ。飲みなんて絶対に行かないだろうし、きっとそのうち切られるかな」
「何だ、まだ始めたばっかりなんだ。だったらまだ望みはあるね!付き合ったら教えてね〜!」
「流山ちゃん、ちなみにどんな人なの?」
「え、っとね。優しい人。なんだか初めてあったことがないみたいな安心感がある。大人っぽいって言うか」
自分で言っていて、口物が緩んでいるのがわかる。
その照れを隠すために、ビールグラスに口をつけて、勢いよくアルコールを流す。
「へえ。いい感じなのか。これは脈ありですな」
「結婚式絶対呼んでよね。みんなで余興もするよ」
「その人の写真見せてー?!」
「あ、あ、うん」
みんなの勢いに押されて、私はアプリを立ち上げる。
あんなに疑っていたハートマークのアイコンが今では心地よい。
メッセージを開いて、相手の写真を出す。
「え!かっこいいじゃん!きれい系だね!」
「流山ちゃん、意外と面食い?」
「優しそう。会ってみてもいいんじゃない」
「いや〜でもサクラかもしれないし」
「うん、それは否めないね。やりとりするしかないね。私もいっぱい女性の人とメッセージ交換してたもん」
「あ、やっぱりサクラっているんだ」
「いるよ〜。やっぱり向こうも商売だからね〜」
ここで一旦自分の話題から遠ざかっていくのを確信した。
私は「ちょっとお手洗い」と言って席を立った。
高鳴る鼓動は鳴り止まなかった。
同期に、一つだけ嘘をついたのだ。
「大鷹くん・・・」
もうだめだ。
私は今日相当酔っ払っている。
あの日のようだ。
初めてメッセージを送った日のように。
彼の名前を口にしただけで、全身の血液が熱くなるのを感じた。
みんな、嘘ついてごめん。
ここで、この胸の中で本当のことを言うよ。
だから、許してね。
時期がきたら絶対に言うよ。
それにこんな嘘でみんないやな顔をしない。
絶対に「なんで早く言ってくれなかったのー」と言ってくれる。
大鷹くん。
急に彼の顔をもう一度見たくなった。
私は出会い系アプリではなく、スマートフォンの画像フォルダをタップした。
そこには、彼の写真が一枚だけあった。
その写真はアプリのものとは違っていた。
プライベートチャットに設定するアイコンの写真だった。
そう。千羽子はすでに彼と直接やりとりをしている。
さらに言えば、電話もしたことがある。
彼の声を聞いて、彼も千羽子の声を聞いた。
もっと言えば、対面であったことがある。
昨日。
千羽子と彼は初めて顔を合せた。
出会い系アプリで、本当に出会ったのだ。
「大鷹くん」
千羽子は小さくトイレの個室で彼の名前を口にしてみた。
心が温かくなる。
千羽子は、彼に恋をし始めていた。