エピローグ
「おばーちゃーん、早くー」
玄関から元気な男の子の声がする。
私を呼ぶ声。
そうだ、私はおばあちゃんなのだ。
今日は大切な孫の七五三の日だ。
まさか、自分に孫ができるなんて、思いもしなかった。
いや、願っていた。
望んでいたが、決して叶わぬ未来だと諦めていた。
まさか自分の子供が4歳で子供を産むとは誰が想像できただろうか。
確かに私たち夫婦は長らく子宝に恵まれなかった。
長い不妊治療も甲斐がなく、諦めた頃にできた子供が千羽子だった。
元気な子で、よく笑い、よく食べ、道ゆく知らない人からでも可愛いと声をかけられる自慢の娘だった。
普通の生活が崩れたのは、千羽子のお腹のふくらみが異常にまで大きくなったことだ。
幼児期にはよくあるお腹の膨らみだが、同時に胸の膨らみも見られたりした。
初潮なんてあったのかもしれないが、気がつかなかった。
保育園に入れていたときにあったのだったら、保育士さんはなぜ知らせてくれなかったのだろう。
それは、いまではもう遠い記憶のどこかの誰かの昔話だ。
思い出そうとしても、当時は辛かった感情の記憶しかないし、思い出しても楽しい気持ちになんて一切ならないので、もう大分思い出していない。
それは、いまあるこの目の前の幸せで、昔の辛い記憶が薄れてきているのかもしれない。
黒く澱んだ粘土の高い液体を、何度も何度も水で洗い流しても手にこびりついているのに、魔法のように全てを綺麗に汚れを落としてくれる液体が、次から次へと私の体に流れてくる。
それは孫の声だったり、娘の見たこともないような屈託のない笑みだったり、ずっとそばにいてくれた旦那の存在だったり。
私は普通を願っていた。
どんな家庭よりも普通を願っていた。
自分自身には何もないけれど、子供には不自由ないくらいの幸せを与えてあげたかった。
けれども、4歳の子供が自分の子供を産むということに対する心の特効薬はどこを探しても見つからなかったし、ネットを何回周っても情報がなかった。
千羽子に対しても、生まれた鷹志くんに対しても、どう接したらいいのかわからなかった。
千羽子に事実を伝える20年もの間、何度も何度も自問自答を繰り返し、病んだ私を旦那が「実家に帰ってゆっくりしてきな」と言ってくれたので、なんとかここまで生きることができた。
当時は、娘と一緒に人生を終わりにしてしまうことも考えたほどだ。
毎日追いかけられるようについてくるマスコミや心ない言葉の数々に疲れてしまった。
でも、どんな有名なお医者さんが処方した薬や世界で有名な医薬品会社が作った薬よりも、娘に「ありがとうお母さん、産んでくれて」と言われた言葉の方が心がすっと軽くなっていくのだ。
もっと早く事実を言っていれば、冷たく言葉もない娘の思春期の時間を温かいものにできたのではないかとは後悔しているけれども、娘と心の壁をお互いに壊しあって、今では二人で居酒屋にお酒を飲みにくまでに関係が構築できた。
それもこれも、娘の息子でありパートナーである鷹志くんの存在が大きい。
彼がいたからこそ、千羽子の人生は人と変わったものになってしまったが、彼がいたからこそ千羽子はまたこうして笑うことができて、双子の子供にも恵まれて、私を「おばあちゃん」と呼ばせてくれたのだ。
人生はどうなるかはわからない。
でも、最愛の人と過ごす人生は、最高にしかならないのだ。
「おばーちゃーん?」
玄関口で私を呼ぶ雛子の声もした。
「お母さん、急がないと集合写真の時間に遅れちゃうよ」
私の大切なたった一人の娘の声もする。
「はーい」
私はよいしょと年々しぶくなる自分の膝に勢いをつけて、椅子から立ち上がる。
自分も歳を取ったなと、廊下にかけている鏡と一瞬目が合って、自分の白髪の量が増えていることを再認識した。
でも、悪い歳の取り方ではない。
千羽子がいて、鷹志くんがいて、夫がいて、翼と雛子がいる。
翼と雛子もそのうち恋をして、子供ができるかもしれない。
そしたら私はひいおばあちゃんになる。
孫のために、お年玉をあげたい。
そんな夢も出てきた。
「お待たせ、ごめんね、最近膝が悪くて」
「もう、無理しないでよ。何かあったら私がやるから」
「ありがとう、千羽子」
「おーい、千鶴大丈夫か」
ワゴンから夫の声がする。
空は雲ひとつない澄み切った青だった。
どこまでもどこまでも続く空は、これからも生きていく力を私たちにくれるようだった。
「大丈夫よ。さあ、行きましょう」
ワゴンからは正装をした孫たちと芸能人よりも顔が整っていると思う成端な顔をした鷹志くんが顔を覗かせて待っていた。
玄関に鍵をかけるとき、ふとシューズボックスの上にある写真が目に入った。
ガラスのフレームに綺麗な薔薇の装飾が施されたフォトフレームには、真っ赤なドレスを身に纏う女性と白のタキシードに身を包む男性、そして天使のような子供が二人写っていた。
「行ってきます」
そう私はその写真に小さく呟いて、大切な人々が待つワゴンへと向かって、力強く歩き始めた。




