64話 『迫りくる炎の魔法と』
アイリスがトリシャを心配する声を上げたものの、それ以外に大声を発する者は誰もいない。
この勝負は魔女と魔女による従者を使った代理戦である。予め定めたルールでは他者が勝負に介入するのを禁止した。
それは魔法による勝負への介入を指して定めたルールなので、助言までを含んだルールでは無いのだ。
しかしながら、戦闘中の助言は勝負への介入に等しく、禁止ではないが好ましいとは言えない。
トリシャがピーチハルトを見失った時も、外野から見ている者はお互いの位置を見失うことは無いと言えよう。
そこで、トリシャに相手の位置を教えるというのは、勝負に水を差す行為と言い切れる。そんな野暮な行為をするのなら、わざわざ代理を立ててまで勝負をする必要はない。
少なくともこの場には、そんな暗黙のルールを欠いた者は存在しないのである。
「アイリス。念のために言っておくが、勝負に介入するなよ」
ルミエーラは腕を組み、視線を上げたまま淡々という。
トリシャを本当の主の様に慕うアイリスが、トリシャが窮地に陥ると行動を起こすかもしれないと予想した発言だった。
「……ルミエはどちらが勝つと思われますか?」
アイリスは返事を濁し、ルミエーラがこの勝負をどの様に見ているのか聞く。
勝負を受けた段階で、魔法の基礎も身に付いていないトリシャに勝算があるとでも思っていたのか? 何故、アリアや自分では無くトリシャを指名されたのにもかかわらず勝負を受けたのか?
疑問を持たずにはいられなかったのだ。
「あいつの従者がこの数日でどれくらい強くなろうとトリシャに勝つのは難しいさ。
トリシャは攻撃も回避も素人に毛が生えた程度だが、防御だけに専念すれば既にアリアを上回ってる。
私は勝算も無く勝負を受けたりはしないよ」
空中を移動する事の出来る魔法を習得できていれば、もう少し有利に勝負を開始できただろう。
それでも、徹底的に教え込んだ防御魔法をピーチハルトが破るとは考えにくい。
勝負は長引くかもしれないが、相手の魔力が尽きれば、あのトリシャでも攻撃魔法を当てる事が出来るだろうとルミエーラは考えているのだ。
「アイリス。もし魔法を使ったら、トリシャの護衛から外すからな」
「……はい」
低く威圧のある声に、アイリスは小さな声で返事をするしかない。
主であるルミエーラから2度も釘を刺されてしまったのだ。従者である事を生きがいとし、信条とするアイリスに、その命令を拒む事など出来るはずが無いのだ。
アイリスは天に祈る思いでトリシャの身を案じる。
トリシャとの約束と主からの命令。アイリスにとってこれ程にまで悩む選択肢は他に無いだろう。
もし、トリシャが窮地に陥れば、どちらか一方しか選択できなくなる。アイリスはその様な事態にならない様に祈るしか出来ないのだ。
両手を組み、突き出した人差し指の前に魔法陣を描く。淡く緑色に光る魔法陣はピーチハルトに向けられている。
トリシャがルミエーラから教えてもらった攻撃魔法は2つ。風魔法ウィンドショットと、同じく風魔法ウィンドエッジだ。
相手を傷つけたくないと考えるトリシャが選択したのは、牽制用だと教えられたウィンドショットであった。
魔力により形成された空気の弾は、真っ直ぐ前に打ち出される。無色透明の空気の弾がピーチハルトに向かって迫っていく。
しかし、トリシャが打ち出した魔法は、あっさりとよけられてしまう。
空気で球体を形成する魔法であるウィンドショットを視認する事は難しい。その為、通常なら風魔法は速度、範囲を読まれにくく回避行動は困難なはずだ。
そう教えられていたトリシャは、ピーチハルトが難なく避ける姿を見て驚いてしまう。
ピーチハルトは回避しながら新たに3つの魔法陣を描き始める。先程と同じく、頭より一回り小さい魔法陣は赤い輝きを放っている。
トリシャは回避しようと動き始めるが、距離を取るよりも早く魔法は発動されるのだ。
火の弾は3つ、トリシャの左側から迫って来る。この魔法を一度見ていたトリシャは、先程よりも上手く回避行動を取れていた。
しかし、それでも火球の1つを避けきることが出来ない。それに対しトリシャは、防御魔法陣を描き対処する。
前日までのトリシャなら3つ同時の火の弾に対処する事は出来なかっただろう。短時間ではあるが、実戦の中で魔法陣を描くスピードが上がっていた。
安堵したのも束の間、トリシャは後ろから攻撃を受けてしまう。
ギャリギャリと音をたてている防御魔法は、虹色に輝き攻撃を相殺していく。常時展開している防御魔法のお陰で身体にダメージは無いが、衝撃を受け体は大きく傾いてしまう。
何で? 何所から? と戸惑いがトリシャの頭の中を巡る。
それも無理はない。ピーチハルトは直前まで目の前に居て、後方から攻撃が来るという考えが皆無だったからだ。
少し高度が下がってしまったがトリシャは慌てて態勢を整える。視線を戻すと、彼女は既に新たな魔法陣を描き始めていた。
防戦一方のトリシャは、一矢報いる為に防御ではなく攻撃魔法で反撃に出ようとする。
「これはまずいな」
ボソッと独り言のように呟いたのはルミエーラだった。トリシャとピーチハルトの戦いを見て思わず眉をひそめるのだ。
その理由は属性魔法の相性にある。トリシャの扱う風魔法はピーチハルトの扱う火魔法と相性が悪い。
もしも、お互いの魔法がぶつかり合えば、よほどの力量差が無い限り風魔法は火魔法に呑み込まれてしまう。
そればかりか、風魔法を呑み込んだ火魔法の威力は増し何倍にも膨れ上がってしまう場合さえあるのだ。
ルミエーラが危惧した通り、ピーチハルトが放った火魔法はトリシャが放った風魔法を吸収し膨れ上がっていく。
巨大な炎と化した魔法は、トリシャを覆い尽くす勢いで燃え盛る。
「トリ……」
一歩前に出るアイリスを止めるように、ルミエーラは手を出して行動を遮る。無言で睨みを効かすルミエーラに、アイリスは動くことが出来ない。
燃え盛る炎により、トリシャの周囲は包まれる。視界一杯に広がり周囲を取り巻く炎は肌の焼ける様な強い熱気を放つ。
呑み込まれる直前に形成した手元の防御魔法は、炎の全てを防げず、正面から迫る一部の炎しか防ぐことが出来ない。
その炎の大部分を、事前に下腹部に記した常時展開している防御魔法で受けることになってしまう。炎と接触を続ける防御魔法は、ギャリギャリと高い音で悲鳴にも近い音が止めどなく鳴り響く。
警告音ともとれる激しい音は、全身を覆う防御魔法から体に直接発している様に聞こえる。
周囲を覆う炎にトリシャは必死に耐える。
防御魔法に魔力を注ぎ、破られないようにするので精一杯になる。これが破られれば、たちまち炎に呑み込まれ、無事では済まなくなってしまうだろう。
熱気により汗がにじみ、勢いに押され宙に踏み止まるのも困難だ。炎の勢いに押され、気が付いた時には「うっ」と短い音を発し地面へと叩きつけられてしまっていた。
トリシャが倒れた後、直ぐに炎の勢いは弱まり視界が開けていく。体を起こすと、自身の周辺の土だけが黒く焦げており、雑草は全て燃えてしまっていた。
防御魔法が無く生身で受けていれば、自身も同じように焼かれていたかもしれないと思うと、恐怖を感じずにはいられない。
トリシャは足がすくみ、立ち上がることが出来なくなってしまう。
だからといって、ピーチハルトの手が休まるはずもなく、上空を見上げると彼女は魔法陣を描き攻撃態勢に入っていた。
トリシャは立ち上がろうと足の裏で地面を捕えるが、足が思う様に動かず体を支えることが出来ない。必死の思いでなんとか体を支えて立ち上がるが、それと同時に火球が上空より降り注ぐのだ。
咄嗟に展開した防御魔法により直撃を防ぐことに成功する。
しかし、真正面から受けた魔法の勢いを殺しきれず、態勢を大きく崩してしまう。
バランスを大きく崩したトリシャは、再び地面に倒れてしまう。トリシャは次に備えて顔を上げるが、その時に視界に入ってきたのは、不安げな表情でこちらを見つめているアイリスであった。
一度放っただけの魔法を避けられ、一方的に攻撃を受け続け、トリシャは勝負を諦めかけていた。
先ほど炎で包まれた時は、死が頭をよぎっていた。ジリジリと、全身が焼かれていると錯覚するような熱気に心が折れてしまったのかもしれない。
しかし、アイリスの表情を見て、トリシャは僅かばかりの戦意を取り戻す。心の中で(アイリス、そんなに心配しないで)と呟くと、トリシャは再び立ち上がる。
自身が不甲斐ない所為でアイリスを不安にさせてしまっているのなら、その不安を少しでも拭ってあげたいと思う。
そんなトリシャが出来る事など、この勝負に勝つしかいないのである。
決意を固めた表情でピーチハルトを見上げると、彼女は再び魔法を放つ所だった。
トリシャは体を少し宙に浮かすと、魔法陣から火の弾が放たれるのを見てから回避を試みる。
しかし、彼女が放った魔法は、今まで見てきた球状の形をした火魔法では無かった。魔法陣から放たれた火魔法は、これまでの火の弾より一回りも二回りも大きな炎の束となって差し迫って来るのだ。
トリシャは高度を上げずに地面すれすれを移動する。炎の軌道上外まで逃れると、回避に成功したと言えよう。
その炎はというと、地面に触れると横に広がりを見せる。広がった火は足元付近まで迫るが、それがトリシャに触れる事は無い。
2種類の魔法は、目視する限り魔法陣の大きさに違いは見られない。魔法陣に描かれている文字までは見えるわけは無いので、別の魔法だと推測するのが妥当である。
トリシャでさえ、ルミエーラから2種類の攻撃用の魔法を教えてもらっているのだ。ピーチハルトが2種類以上の攻撃魔法を使っても何ら不思議はない。
思い返してみれば、トリシャが放った風魔法を呑み込み周囲を取り巻いた炎は、火の弾ではなく先ほどの火魔法と同一のものだと認識を改める事が出来る。
2種類の魔法は、範囲や形状の違いこそあるものの速度に違いは無く、距離を取れば避けられないものでは無い。
勝負に対し意を決したトリシャは、今までと違って相手の魔法を冷静に識別し分析できるようになっていた。
トリシャは間合いを取りつつ、高度を上げる。その間に、ピーチハルトは次の魔法の準備へと入っていた。
よく見ると、彼女は少し疲れが出始めているのか、呼吸に合わせて肩が僅かに上下運動を繰り返している。
彼女は攻撃魔法を数十回も発動している。それに対し、トリシャは2種類の防御魔法と2回の攻撃魔法しか使用していない。
回避は何度か失敗し衝撃による身体的負荷は受けているものの、魔力の消費量で大きな差が生まれていた。
属性魔法全般は、己の魔力を別の物質へと変換する作用をもたらす。その変換コストもさることながら、魔力量に応じて規模や効果範囲、形状が変化する。
接触した魔法の効果を相殺する作用が主な防御魔法と比べると、魔力のコストパフォーマンスに差が出るのも当然だと言えよう。
その他にも、魔力の総量による違いや、トリシャが宙を浮遊するのに魔法道具を使っている点により差が生まれているのである。
しかしながら、トリシャがこれらを全て把握しているわけでは無い。
それでも、ピーチハルトが体力を消耗している事だけは認識できたのである。
赤色の魔法陣から放たれた2つの火の弾を、トリシャは両方かわして見せるのだ。
すると、トリシャは急速にピーチハルトとの距離を詰めていく。
何故なら、彼女は魔法を使う際、発動した直後に数秒の間が生まれていたからだ。
魔法は一度に3つまで同時に発動する事があるが、個数に限らず発動後に必ず硬直時間――クールタイムが発生していたのだ。
今までは、回避と防御に精一杯で間合いを取ろうと後退していた。その所為で、攻撃を仕掛けても避けられてしまっていたのだという考えに行き着いたのだ。
トリシャが避けられる射程なのだ。自身より魔法の扱に長けたであろうピーチハルトが、回避を行うのも容易であると考え付く。
それは同時に距離を取ったままだと、トリシャが魔法をいくら放った所で当たるわけが無いという事を示しているのだ。
となれば、トリシャが取るべき行動は1つで、魔法を当てられる距離まで近づく必要性があるのだ。
ピーチハルトに近づける機会は複数回あるとは限らない。相手がこちらの狙いに気が付けば距離を取られてしまうからだ。
ならば、最初に接近できるこの機会に、攻撃魔法を確実に当てなければならない。
トリシャは魔法陣を右手の手の平の前に描きながら接近する。
魔法を確実に当てる為、発動させる直前まで魔法陣を相手に見えないように背中側に右手を回すのだ。
彼女に手が届くまで1メートルと迫った所で、トリシャは右手を前に翳す。手の平の前に描かれた魔法陣は、手と同じ大きさで淡く白い光を伴っている。
トリシャは魔法を発動する際、アイリスの顔を脳内に過らせるのだ。
それは、アイリスの為にも、この勝負に勝利したいという思うトリシャの気持ちの表れを意味していた。




