61話 『魔女の要求と』
ごくん。
唾を呑み込む音は、こんなにも大きかっただろうか?
否、日常生活では意図して認識していないだけで、今しがた聞こえた喉の音も周囲からしたら無音に等しいものなのだ。
喉の鳴る音だけではなく、心臓の脈も認識できるほどトリシャは緊張感に苛まれていた。
大きく脈打つ心臓の鼓動はアイリスやアリアと過ごす中で度々聞いてきた。しかし、これまでの鼓動とは違い、苦しさを感じるのは初めてだった。
トリシャは現在、周囲を埋め尽くすほど複数の自生した樹木の一つを背に身をひそめている。体を硬直させ、その樹木の一つに溶け込む様に静止しているのだ。
「もう一人の従者は何処に隠したのかしら」
後方から聞こえてくる声は冷たく、ロゼッタという名の従者とは別の声だ。おそらく、お茶会の時に紅茶をカップに注いでくれたもう一人の常緑の従者だと、トリシャは聞き耳を立てながら感じていた。
「この森から逃がしました。後は私が退くだけです」
常緑の従者から発せられる場の緊迫感に、押しつぶされそうになっているトリシャとは違い、アイリスは淡々と言葉を返す。
「……まぁ良いわ。この森の何処に隠れたとしても、後でエカテリーナ様が見つけて下さるわ」
常緑の従者は少し間を置くと、アイリスの言葉を無視する物言いをする。
アイリスが述べたブラフを見破ったか迄は定かではないが、何にせよトリシャがまだ迷いの森の中に居ると踏んでいる様子だ。
「それよりも、もう一人の従者の元へ行かなくてもいいのかしら?」
「ロゼッタの事なら心配ないわ。そちらへはエカテリーナ様が向かわれているもの。
あなた一人くらいなら主の手を借りなくても私が捉えられるわ」
言葉を言い終わると同時に、常緑の従者は手の平を前方に翳す。すると、宙に魔方陣を描きアイリスを拘束しにかかる。
その魔方陣をみたアイリスは素早く,それを凌ぐ為の防御魔法を発動する姿勢へとうつるのだ。
黄色く発光する魔方陣が完成すると、地面から先が鋭く尖った岩石が地表へと隆起する。その切っ先はアイリスの体を突き刺そうと言わんばかりの勢いで迫ってくるのだ。
アイリスは素早く後方へ退くが二手三手と鋭利な岩は彼女の身を捕捉する。準備の整った防御魔法を使い避けきれない隆起した岩石を相殺していく。
両の手で翳された防御魔法は、岩石を弾き飛ばす。先端から砕かれた岩石は破片となり地面へと落ちていくのだ。
アイリスとしてはトリシャの位置を特定される前に相手を無力化させたい所だが、トリシャの事を考えれば離れることも出来なければ広範囲に影響が出る魔法も使えない。
そうなると、短時間で相手を無力化する難易度は格段に跳ね上がってしまう事だろう。
常緑の従者の攻撃は休まらない。地面から突き出た岩を避ける様に宙に浮かぶと、新たな魔法陣から拳大の石の礫を複数放つのだ。
アイリスは前方に防御魔法を展開し、全ての礫を防いでいく。しかし、ただ闇雲に弾けばいいと言ったわけでは無い。なぜなら、流れ弾がトリシャに当たらない様に考慮しなければならないからだ。
防御に集中するアイリスに対し、常緑の従者は攻撃の手を緩める事はしない。
拳大の石が無数に宙を飛ぶ。その全てを打ち落とす事はアイリスにとっては造作もない事だ。
しかし、アイリスは常緑の従者との戦闘に苦戦してしまう。
なぜなら、トリシャを安全な場所へ避難させないといけない事や目の前の常緑の従者を退けないといけない事、それらを常緑の魔女が駆けつける前に遂行しなくてはならない。そうなると、気持ちばかりが先走り冷静さを欠いてしまい動きが単調になってしまうからだ。
アイリスの頭の中が森からの脱出方法を考える事で一杯になっていると、その隙を常緑の従者が捉えてくるのだ。
アイリスの動きが止まる一瞬の隙を付いて、常緑の従者はアイリスの足元に魔法陣を展開する。
そして、魔法陣の外周から複数の気が生成すると、アイリスを包み込むように木々によって造られた檻を形成し彼女を捕縛してしまう。
周囲を囲む木の檻は幹と枝が格子状に張られ、動ける範囲を抑制する。
アイリスはすかさずその場で一回転し、攻撃魔法によって檻の破壊に踏み切る。
空気を刃状に形成し、体の回転と共に円形の外周に広がる刃を打ち出す。畳二畳分しかない空間で最小の動きで切断力の高い魔法を使ったのだ。
彼女が用いた魔法は風魔法ウィンドエッジの応用技である。空気を圧縮し刃状に形成した切断力の高い魔法だ。体を回転する事によって範囲を拡大させ360度に及ぶ攻撃にアレンジしているのだ。
しかし、その攻撃を受けた木の檻は樹皮の切断に留まり、風の刃が幹を切断する事は無かった。
「ふふ。これで貴方は動けない。その間にもう一人の子を探させてもらうわ」
常緑の従者は微笑むとトリシャを探す為にその場を去ろうとする。
アイリスは後悔した。先ほどの風魔法を複数回放てば木の檻を切断できるかもしれない。しかし、それでは遅すぎる。
他の魔法を使う手段もあるのだが、強すぎればトリシャを巻き込む危険性があり、範囲や威力を絞れば檻の破壊に時間を要するのだ。
幹の太さはアイリスの胴よりも太く、枝の太さはアイリスの腕よりも太い。それが無数に絡み合い木と木、枝と枝の隙間は決し大きくは無い。
遠ざかろうとする常緑の従者にアイリスは意を決して檻の破壊に踏み切る。
アイリスは手の平に白く発光する魔法陣を描くと、手元は光に覆われ瞬く間に周囲を包み込む程の閃光を発した。
すると次の瞬間、木々で組まれた檻は縦方向に真っ二つに切断されたかと思うと、間髪入れず横方向にも切断されるのだった。
光量が弱まると同時に、切断された木の檻は地に転がる。アイリスが放った魔法の切れ味は留まる事を知らず、周囲を囲む森に自生した木々たちを切断してしまい、時間差で地面へと傾き出すのだ。
トリシャは自身より横幅のある木の根元で蹲っていると、背中に面した樹木が突如として後方へ音をたてながら倒れていく。
木と木がぶつかり合い、枝がバキバキと折れる様は、恐怖心や不安を助長する。木々が倒れる音は一つではなく、複数の音が重なり合い森の中で木霊していく。
トリシャは状況を確認しようと立ち上がってみると、倒れた木の先には対峙し合うアイリスと常緑の従者の姿が見える。
「あら、案外近くにいたのね」
迂闊だった。気が動転して立ち上がった所為でトリシャは自らその姿を晒してしまう。
木々が倒れてしまった事で視野が広がってしまっていた。アイリスたちとは数十メートルしか離れていないのだから見つからない分けが無いのである。
常緑の従者が攻撃態勢に入ると同時にアイリスは走り出す。彼女の攻撃対象はトリシャへと移っており、その攻撃からトリシャを守らなくてはならない。
トリシャに目掛けて飛ぶ石は6つもある。
間に合わないと踏んだアイリスは、魔法によって光の弾を造り出し、それを使って従者の攻撃を相殺しようと試みるのだ。
「ああっ!」
トリシャが短い悲鳴を上げる
アイリスが放った光の弾は6つの石の内5つを相殺する事が出来た。しかし、先頭を走る石には間に合わずトリシャに直撃してしまった。
「トリシャ、大丈夫ですか?」
左肩に被弾したトリシャは、その場に倒れ込んでしまう。すぐさまアイリスが駆けつけるが、その様子を常緑の従者が大人しく待っているはずもない。
石がトリシャに命中した後、常緑の従者は2人との距離を詰めていた。その手の平には既に魔法陣が描かれており、開けた空を覆うかのように大きな岩で出来た槌を振りかぶっているではないか。
アイリスは左腕でトリシャの肩を抱えていた。その場を動く事は出来ず、防御魔法を形成するしか無いのである。
「私の従者に手を出すとは、死ぬ覚悟が出来ているんだろな?」
上空から聞こえる声は、左肩を抑えているトリシャにとって聞き馴染みのある声だ。空を見上げると、金色の長い髪を携えた女性が空中に留まっている。
気が付くと、常緑の従者が携えていた岩で造られた槌は地に接し、彼女自身は電光瞬く輪によって上半身を縛られていた。
「間に合って良かった」
アイリスとトリシャの側に駆け寄るのは森から脱出したはずのクラリーチェだ。という事は、彼女がルミエーラを連れて来てくれたという事になるのだろう。
「助かったわ」
「あなたは治療に専念しなさい」
アイリスはクラリーチェの言葉を聞くと、トリシャの左肩に治癒魔法を施す。淡い光に包まれると痛みは消えていく。
「まさか、金色の魔女自らこの森に来るとは思わなかったわ」
ルミエーラによって拘束された常緑の魔女は地に伏せている。
「従者が帰って来ないんだ。こちらから出向くしかないだろう」
ルミエーラは高度を下げて地に足を付けると、常緑の従者に問いただす。
「お前の主は何処だ?」
「心配しなくても直にこちらへ向かってきますわ」
彼女の言う通り、常緑の魔女は数分も経たない内に姿を現すのだった。
魔女と言われる者はてっきり箒を移動手段に用いると思っていた。しかし、トリシャの前に現れる魔女は、ことごとくその身一つで空を自在に飛んでくる。
肩の傷が癒えたトリシャは、上体を起こして魔女たちの会話を静かに見守るのだ。
「貴方の方から会いに来てくれて嬉しいわ」
先に口を開いたのは常緑の魔女だった。彼女の側にはアイリスとの戦闘で敗れたはずのロゼッタが、平然とした様子で佇んでいる。
「私の従者に手を出したんだ。私に喧嘩を売ったってことでいいんだよな?」
ルミエーラの語気には怒りが混じっている様に見受けられた。
「私が貴方に喧嘩を売るわけ無いじゃない。それよりも貴方に協力して欲しい事があるの」
エカテリーナはルミエーラに拘束されたままの従者の側に寄ると、いとも簡単にその拘束を解いてしまう。
拘束を解かれた従者は、服に付いた土を手で払いのけると、先程までとは打って変わって大人しく後方に下がっていく。
「なんだ、その協力して欲しい事というのは?」
「私と一緒に漆黒の魔女を殺して欲しいの」
直前までにこやかだったエカテリーナの表情は、一瞬で冷たい視線へと変わるかと思いきや、直ぐに元の表情へと戻っていく。
トリシャは背筋に悪寒が走り身震いをしてしまう。
「何故私がお前に協力しないとならない」
「貴方なら分かる筈よ。漆黒により大切な人を失った仲なのだから」
漆黒というのはトルトリーニの街で出会ったゴスロリチックな服を着た少女の事だ。彼女がルミエーラやエカテリーナの大切な人を殺めたというのなら、これまでのアイリスやリアの様子に納得することが出来る。
トリシャはあの時、命拾いをしていた事を今になってようやく理解した。
「生憎、私は興味ないんでな。復讐なら一人で勝手にやってくれ」
「そんなこと言わずに協力して頂戴。私と貴方が手を組めば勝てると思うわよ」
まだ怒りが収まらないのか、ルミエーラは耳を貸そうとはしない。
「なら勝負をしましょう」
エカテリーナは諦めきれないのか、胸の前で両手を叩くと提案をしてきた。
「私と戦って勝てると思うのか?」
「そんなわけないじゃない。お互いの従者で代理を立てるの。もちろん命をかけたりはしないわ」
「私にメリットが無いのに、そんな勝負をするわけないだろう」
ルミエーラは腕を組むと、ため息を付く。左足に重心を寄せ、右足で地面を小刻みに叩いている。
「そうね、貴方が勝ったら譲っても良いわよ。純白の魔女の遺品を」
その言葉を聞いた瞬間、ルミエーラの足の動きが止まる。エカテリーナは勝ち誇ったかのような笑みを浮かべると、話の主導権を握るのだ。
森を駆け抜け追われていたのが嘘みたいに、物事は静かに収束していく。
トリシャが戦闘により生じた森の隙間から空を見上げると、晴れ晴れとした青空がのぞむ。
静まり返った森の中には、そよ風に揺れる葉と葉の擦れる音しか流れていないのであった。
半年近く更新が滞っていましたが少しずつ更新を再開していきたいと思います。




