60話 『己の無力さと』
常緑の従者と距離を置き、森をさ迷っていると、再び追手の姿が見えなくなる。
トリシャがその旨をアイリスに伝えると、彼女は急に速度を落とし、地に足を付けてしまうのだ。
戸惑うトリシャに対し、アイリスは覚悟を決めたかの様な真剣な眼差しをしている。
「立ち止まっちゃうと追いつかれるんじゃ……」
トリシャは気が気ではなかった。
先程森を駆け抜けた突風は、常緑魔女の従者であるロゼッタが魔法を行使して攻撃してした他ならない。追手である従者に追いつかれるという事は即ち、魔法を使っての戦闘になるに違いない。
その場合、トリシャは完全にお荷物であり、邪魔――弱点でしかないのである。
アイリスがそう簡単には負けるとは思わないし思いたくもない。トリシャはそう思うほどにまで彼女の事を信頼しきっている。
しかし、不安を覚えてしまうのは、それとこれとは別なのだ。
「トリシャ。ここで従者の1人と対峙しようと考えています」
アイリスはトリシャの不安を拭うように手を握りしめる。普段ならそれで落ち着いてしまうのだろう。
しかし、今のトリシャは、いつロゼッタが姿を表すのか気掛かりで、アイリスが話している途中も辺りを見渡してしまうのだ。
そんな落ち着きのないトリシャとは正反対に、平静を取り戻したアイリスは、状況を好転させる為の手段に打って出ようとする。
「このまま出口を求めて森の中を進んでも状況は改善されません。追われながらだと出口を探す事に意識が避けませんし、先程のように突然襲われる危険もあります。
ですから、1度立ち止まって常緑の従者を迎え撃とうと思います」
トリシャを連れて逃げながらも、アイリスは状況の打破を模索していた。戦闘になればトリシャへ危害が加わる可能性もでてくる。
しかし、先程のように森の中で突然襲われでもしたら、それこそトリシャを守れる保証が無いのだ。
「僕はどうすれば……」
魔法を覚え始めたといっても、実戦で使えるような代物では到底無い。
そんなトリシャがアイリスに助力出来るはずもなく、かといって無防備に突っ立っていても邪魔になるだけだ。
「今から結界を用意しますので、準備が整うまで待っていてください」
アイリスは軽く笑を見せると、その準備に取り掛かる。
森の中にある木々の隙間を見つけると、アイリスは地面に円を書き始めた。そして、腰に下げている鞄の中から6つの杭を取り出したのだ。
金属の様な素材で作られている杭は、上部に宝石が取り付けられている。それを円周に沿って等間隔に地面に打ち付ける様を、トリシャは言葉を発する事なく見続けていた。
全ての杭を打ち終わると、アイリスは地に印した円に手を当て、その上に魔法陣を描いていくのだ。
白い輝きを持つ魔法陣は、内側に6つの杭を頂点とした六芒星が浮かんでいる。魔法に詳しくないトリシャでも、それがこれまでの魔法と違う事はひと目で認識出来ていた。
アイリスは屈めていた腰を上げると、トリシャに向き直り、いつもと同じ表情を向ける。
「この魔法陣の中へ入って下さい。次に私がトリシャに触れるまでこの中から出てきてはいけませんよ」
平静を取り戻した彼女は、いつもと同じ明るい口調で言う。
トリシャは未だに不安を払拭出来ずにいるが、それでもアイリスを信じて魔法陣の上へと移動するのだ。
「アイリス。無茶はしないでね」
「心配してくれるんですね。私は大丈夫ですから、何が起こってもその場から動かないでいて下さい」
アイリスは背を向けると、少しずつ遠のいていく。トリシャは木々の隙間に隠れていく彼女の姿から、目を離す事が出来なかった。
それは、不安に駆られているからだけではない。自分の身に危険が迫るのと同様に、アイリスの身に危険が迫るのも良しとする事が出来ない所為だ。
時折見えるアイリスを視界で追い続ける事しか出来ないトリシャは、自分の身を自分で守れない事を痛感するばかりなのだ。
アイリスの姿が見えなくなって数分。視界の端で何かが光る。その方向に視線を移すと、前方から勢いづいた風が、突風となって押し寄せて来た。
トリシャは風に押せれて一歩、後ずさりしてしまう。 このまま魔法陣の外へ押し出されてしまうと、アイリスに合わせる顔がなくなってしまう。
それだけは避けなければと、トリシャは前方に身を屈めると同時に、その場に腰を下ろす。
視線を下げれば、転倒の恐れも無ければ、風を強く受けずに済む。 それに、低い位置だと無数に生えた草木が壁となり、風の抵抗がより半減するのだ。
しばらく耐え続けると、突風は収まっていく。
トリシャは顔を上げると、突風のやってきた方角を見やる。すると、森の奥の方で何かが瞬いていた。
それは1回に限らず、断続的にチカチカと光っているのである。
しかし、周囲に点在する木々と、時折押し寄せる突風により、その光の正体が何かは分からなかった。
それでもトリシャには、その先にアイリスが向かっている事から、常緑の従者であるロゼッタと戦闘になっているかもしれないと予想する。
身を屈めていれば、突風により吹き飛ばされる事は無い。アイリスの施してくれた魔法陣から出なければ、取り敢えずは身に危険が及ぶ事は無いのだ。
自身がアイリスに守られ比較的安全な場所に身を置いているとしても、トリシャの不安が消える事は無かった。
それは、森の中に1人という自身の置かれた境遇からくる不安ではなく、姿が見えなくなってしまったアイリスの身を心配からくるものだった。
魔女の従者である魔人がどの様な方法で戦うのかは知らないが、おそらく魔法を用いて戦うのだろう。
アイリスや常緑の従者は、ルミエーラが使っていた木を切断してしまう程の魔法と同程度の魔法を使っているのだろうか?
そう考えると、魔法は空想上にある物語みたいな美化されたものではなく、刃物を使った殺し合いの様に殺伐とした戦いになっているのではないのか。
森の中に1人きりになってしまった所為か、トリシャはネガティブな方向に思考が働いてしまう。
暗く沈んだ気持ちを落ち着ける為に思わず、アイリスが向かった方向から視線を外してしまうのだ。
魔法陣の上に膝を抱えて座り込み、トリシャはアイリスが無事に帰って来る事を祈りながら、地面へと視線を落としていく。
頭の中を空っぽにしてみる。無心へと近づけることによって、ネガティブな思考に纒わり付かれる事が無くなるのだ。
トリシャはそうやって、自己防衛に近い手段を取っていくのだった。
そうやって時間が無闇に過ぎていく中、近くの茂みから音が聞こえてくる。 ガサゴソと草木をかき分けながら進む音は、だんだんとこちらに向かってきているではないか。
トリシャは一瞬、アイリスが戻ってきたと内心喜ぶ。しかし、それがアイリスでは無い場合、どうすればいいのか考えてはいなかった。
覚えたての魔法を使って攻撃をする。それも一理あるだろう。
しかし、不意をつきでもしなければ、魔法初心者であるトリシャが放つ魔法が当たるとは思えない。
実戦を想定した事の無いトリシャには、魔法で攻撃する所か、そこに至るまでのプロセスを想像する事が出来なかった。
アイリスから戻って来るまで魔法陣の上から動くなと言われている。となると、もしも常緑の魔女や従者と出くわしても逃げる行為を取れない。
仮に逃げたとしても、逃げ切れるとは思えないが――
そんな事をかんがえている内に、茂みから音を発していた人物が姿を見せるのだ。
薄く灰色がかった桃色の髪の毛は上空を覆う葉によって遮られた光源により、より暗い印象を受ける。
白いブラウスと紺のジャンパースカートは、汚れも無く清潔さと可愛さのある出で立ちを演出していた。
「お待たせ致しました」
そう笑顔を見せる少女の姿を見て、トリシャは安堵の表情を浮かべる。
茂みより姿を現したのは、他の誰でもないアイリスだったのだ。
「よかった。アイリスが戻ってきて」
無事に戻ってきた彼女の姿を見ていると、先程まで抱いていた不安が全て吹き飛んでしまっていた。
「私はどこへも行きませんよ。少々離れる事があっても、それは一時的な事です。
心配しなくとも、役目を失わない限りトリシャの元に戻ってきます」
アイリスはトリシャの手を取り固く握るのだ。力の込められたその手は、温かみのある優しさの詰まった手だった。
「強い風が吹いたり遠くの方で何かが光ったりしていたけど、大丈夫なの?」
アイリスが見えなくなっていた間、彼女の身に何が起きていたのか気になる。
あの激しい突風や木々の隙間から垣間見える閃光が何を示しているのか、気にならないはずが無い。
「心配いりません。今は常緑の従者の身動きを取れなく致しましたので、もう大丈夫です」
先程までとは違い、アイリスは普段の落ち着きと明るさを取り戻している。
彼女の表情を見れば、当面は心配いらないのだろうと、トリシャはそれ以上の質問を辞めるのだ。
それは、トリシャがアイリスを信頼し切っている証拠だと言えよう。
「この森の抜け方が分かった訳ではありませんが、現状が常緑の仕業だとすれば魔法か魔術の類に他なりません。 その痕跡を探したいと思いますが如何なさいますか?」
平静を取り戻したアイリスは、迷いの森を抜ける手掛かりを思いついた様子だ。
「アイリスに任せるよ」
「では、徒歩になりますが森の中を捜索しましょうか」
アイリスはトリシャの周りに並べられていた杭を鞄の中にしまうと共に、魔法陣を地面から消す。杭の先端を使って地の表面を削っただけだが、魔法陣の模様は跡形も無い。
全ての作業が終わると、トリシャの手を繋いで森の中を歩き始める。
その温かみのある手にトリシャは現状を忘れてしまうくらい安心し切ってしまうのだ。
森の中は静けさで満たされており、時折風で揺れる葉のさざめきの音しか聞こえてこない。余りの静けさに、本当に動物が生息していない様に思えてくる。
トリシャは辺りを見渡しながら、アイリスに手を引かれるままに後をついて行く。
すると、アイリスが突然立ち止まる。よそ見をしていたトリシャはぶつかりそうになるが、なんとか直前で立ち止まる事に成功するのだ。
「どうしたの?」
トリシャが覗き込むと、アイリスは神妙な面持ちで考え事をしていた。いつもは直ぐに、時折食い気味に返事をする彼女にしては珍しく返事が無い。
彼女の横顔を不思議そうに眺めていると数秒後、ようやく答えが返ってくるのである。
「この場所だけマナが多く感知されます」
マナについて詳しく知っている訳では無いが、人間だけでなく自然界や他の生物にも宿る神秘的な力だと、部屋にある本で読んだ事を思い出す。
その本では、マナは自然界の全ての物に宿り、神に愛された者は多くのマナを使う事が許されると記されていた。
「目には見えませんが障壁が張られています。おそらく、常緑の仕業かと思われます」
アイリスはそう言うと、前方へと手を翳す。手の平に魔法陣を浮かべる。
すると、バチッと音を立てて、アイリスの手は何かに弾かれてしまったのだ。
「きゃっ」
短い悲鳴を上げる。アイリスは手を引っ込めると同時に一歩後退してしまう。
「アイリス。大丈夫?」
「障壁を破ろうと解術を試みましたが弾かれてしまいました」
彼女は苦笑いを浮かべて、再び障壁の解術に挑もうとする。
一瞬だったが、トリシャにも半透明の薄い膜を視認する事が出来た。その障壁とやらが自身やアイリスを迷いの森に閉じ込めている手段なのだと認識する。
それが常緑の魔女によって行われている事も――
「無理しないでね」
トリシャに心配をかけないようにしようと務めるアイリスに、その言葉は意味を成さない。寧ろ、その心配を取り除くべく無理をしてしまうのが彼女の本質だろう。
トリシャは思いを募らせながらも、静かに見守る事しか出来ないでいた。それしか取れるべき行動が無いのだ。
アイリスが障壁の解術に勤しむ中、何かが接近する気配を感じる。枝や葉をかき分けながら進む音が遠くの方から及ぶのだ。
「アイリス。何かが近づいてくる」
「トリシャ。隠れてください!」
トリシャの呼びかけに何が気づいたのか、アイリスは慌てて身を潜めるように促す。
その声を聞き、トリシャは急いで近くにある木の影に隠れる。木の幹は太く、1人の少女くらいなら簡単に隠せてしまう。
アイリスも隠れないのか声を掛けようとしたが、時すでに遅かった。それが、トリシャが木の影に隠れると同時に姿を表したからだ。
緑色の瞳は、鋭い目付きでアイリスを見下ろす。
今日はアイリスに魔法を教わる予定だった。それがどうしてこの様な事態へと陥ってしまったのか。
和やかな雰囲気に包まれたお茶会は、もう見る影も無い。
トリシャは木陰で息を潜め、ただただ気配を消す行動しか取れないでいた。




