59話 『迷いの森と』
木々の間を風がざわめきながら吹き抜けていく。光のカーテンが開けると、視界には見知った森の木々が葉を揺らしながら立ち尽くしていた。
トリシャがクラリーチェの起動した転移魔法の先で見た光景は、転移する前と何ら変わらない森の中だった。
「あれ?」
「これは……クラリスだけが移動したと言うことでしょうか?」
トリシャが疑問符を浮かべていると、アイリスによってクラリーチェがこの場にいない事を知る。
近くにクラリーチェの姿も無ければ、足元にあった魔法陣が施された布も存在しなかった。
何が原因かは分からないが、転移魔法によって元いた森の入口に戻れたのはクラリーチェだけのようだ。
「あら、貴方たちは帰らなかったの?」
声の方向に振り向くと、円卓の椅子に腰掛けたままのエカテリーナの姿がそこにあった。
彼女の薄い笑みが違和感と同時に不安を煽ってくる。穏やかな表情をしているが、彼女が魔女だと言うのは間違いない事実なのだから。
「私たちに何かしましたか?」
アイリスはトリシャの前に身を乗り出すと、エカテリーナに向けて質問をぶつける。
「あら、察しが良いのね。流石、純白の元従者。驚いたわ」
「はぐらかさないで下さい」
笑みを浮かべるエカテリーナとは対照的に、アイリスの目つきは鋭くなる。これほど彼女が語尾を強める事は見た事が無かった。
アイリスの反応を見る限り、転移魔法で移動できなかったのは、こちらに微笑みを向ける女性、エカテリーナに原因があると言う事になるのだろう。
「あらあら。貴方たちには悪いけど、人質になってもらうわ。そうすれば、金色も私のお願いを聞き入れてくれるんじゃないかしら」
エカテリーナの表情が不敵な笑みに見えるのは、きっと気のせいでは無いだろう。
今の彼女の表情を見れば、迷いの森を生む常緑の魔女だと言う事は明白だ。
「初めからそのつもりで……」
「初めからじゃないわ。貴方たちだけを連れてきたのは私じゃないもの」
「話が違います。乱暴な事はしないって言ったじゃないですか」
トリシャたちをこの地へと連れてきた張本人であるピーチハルトが、彼女の主であるエカテリーナに向かって抗議する。
「嘘は言ってないわ。まだ手荒な事はしていないもの」
「ですが人質だと……」
「あの子たちが大人しくしてくれればだけど」
エカテリーナはトリシャたちの方へ顔を向けると、その浮かべられた表情がより不気味さを増す。
まるで獲物を見つめる目。あの時、無法者の集団のお頭が自身を見る時の表情に近い悪寒を感じる。
トリシャは背筋を走り抜ける寒気を感じて、一歩後ずさりしてしまう。
「トリシャ、この場から離れましょう」
アイリスは腰に下げたポーチからマントを1つ取り出すと、それをトリシャへと被せる。
そのマントは、氷の城から街へ買い物に行く時に使っていた空を飛ぶ事が出来るようになるマントだった。
トリシャが返事をするのも束の間。アイリスはトリシャの手を引くと、エカテリーナがいる方向と真逆へ走り出した。
「ロゼッタ、後を追いなさい」
「かしこまりました」
エカテリーナが少女の1人に指示を出すと、桃色の髪色をした少女が返事をする。
お茶会の時は和やかな表情をしていた少女だったが、今は鋭い目付きをトリシャたちへ向けていた。
「アイリス?」
成されるままに走り始めると、ものの数メートルで体が宙に浮く感覚が全身を包み込む。体が浮いた事に戸惑う一方、目の前へ押し寄せる大量の木々に恐怖を感じてしまう。
今は体が宙に浮いてしまっているが、アイリスは森へ向かって走り出していたのだ。このままだと無造作に幾重にも連なる木々にぶつかってしまう。
「危ない!」
トリシャは思わず目を瞑ってしまう。
しかし、木々にぶつかる事はなく、アイリスによる巧みな舵取りのお陰で、木々を交わしていくのである。
トリシャは薄めしか開けられなかったが、ギリギリの所で木々を全て交わしていく。後ろを振り返ると、木々の狭間から追手と思われる少女の姿が視認できる。
前を向いていると下手な絶叫マシンなど比べ物にならないくらいの恐怖を感じてしまう。トリシャはそういう事もあってか、追手の少女の姿を捕捉する事に集中して、恐怖心を和らげようと試みたのだ。
「アイリス、後ろから女の子が追ってくる」
なるべく大きな声を出してアイリスに伝える。そうしないと、風の吹き抜ける音と木々のさざめきでかき消されると判断したからだ。
「大丈夫。私がトリシャを守りますから」
アイリスは少しだけ顔を傾けると、透き通る声で言葉を発する。風の吹き抜ける音の間をすり抜ける声は安心感を与えてくれる。
彼女には助けられてばかりだが、その言葉にトリシャは少しだけ落ち着くことが出来るのだった
薄暗い森の中を駆け抜けること数分。トリシャとアイリスの2人は、木々を避けながら突き進んでいく。
木々が密集している分、森の中は薄暗く、左右に蛇行しながら前に進む。
後ろから追いかけてくる桃色の髪色をした少女とは、一定の距離を保ったまま、追いつかれるという最悪の事態だけは避けられている。
アイリスの方を向くと、彼女は飛行に集中しているのか、振り返る事は無い。
魔法のマントを身に付けているのはトリシャのみなのだが、それは彼女が魔法を使って飛んでいるのだろうと、トリシャは脳内で自己解決していた。
身の危険を感じるべき時に、こんなにも冷静でいられるのは、強く握られたアイリスの手による安心感によるものが大きいだろう。
もしかしたら、いつも以上にアイリスに余裕が無いから、代わりに冷静にいられるのかもしれない。
顔に当たる風に目を細めながらそんな事を考えていると、視界の先が明るくなってくる。
「出口が見えてきましたよ」
アイリスの弾む声を聞いたその直後、木々のざわめきが止み、開けた空間に出る。
森の外に出た瞬間、一時的に体がフワッと浮く感覚がすると、そのまま速度を落として地面に着地する。
これで危機的状況から脱出する事が出来たのだと安心するのも束の間、トリシャは着地に失敗して尻餅をついてしまうのだ。
「いてて……」
「すみません。もう少しゆっくり着地すべきでしたね」
アイリスは腰を屈めて心配の声をかける。
その間もアイリスの手は握りしめられたままだった。彼女が居てくれれば守ってくれる。トリシャは絶大な信頼をアイリスに寄せていたのだった。
「追いつかれる前に……」
アイリスは何かを言いかけるも、言葉を失ってしまう。
何故なら、彼女が振り向いたその先に常緑の魔女ことエカテリーナが薄笑いしながらこちらを見つめているからである。
「あら、随分早く戻ってきたのね。地の利があるはずのロゼッタが追いつけない筈だわ」
余裕があるのか、彼女はティーカップを片手に優雅に紅茶を嗜んでいる。
「これはいったい……」
「貴方も知っているはずよ。この場所は私の庭。界隈では迷いの森と言われている事を」
戸惑うアイリスは、身動きが取れずにいた。
どうすればトリシャを守れるのか、どうすれば森から脱出出来るのか、思考を続けても答えが見つからない。
そうこうする内に、ロゼッタと呼ばれる桃色の髪色をした少女が森から姿を現すのだ。
「アイリス、一旦逃げるしか」
「そうですね。1度引きましょう」
トリシャが声をかけると、止まっていたアイリスは再び動き出す。
魔女の従者2人と魔女自身を相手取っては、流石のアイリスにもトリシャを守りきれないのは明白だ。
思考を1度停止させてでも、ここは逃げるしかない。アイリスは再びトリシャの手を引いて森の中を突き進んでいくのであった。
おかしい。森の中を真っ直ぐ突き進んでいるのに、一向に出口が見えない。トリシャはもちろんアイリスも森の出口が何処にあるのか知らない。
しかし、一方に向かって真っ直ぐ突き進んでいるのにも関わらず森の終わりに行き当たらない。それどころか、何度も何度も繰り返し常緑の魔女のいる場所へ戻ってきてしまうのだ。
頭がこんがらがるトリシャたちを嘲笑っているかの様に、常緑の魔女は円卓の椅子に腰掛けたまま動く事はなかった。
まるで彼女の手の平の上で転がされている様な気分に陥ってしまう。
しかし、木々を避けながら常緑の従者の1人に追われている状況の中、思考を働かせるのは困難といえよう。
だからこそ、未だに常緑の魔の手から逃れる術を思いつかないでいるのである。
エカテリーナから逃げ始めて小1時間。森の中へ入るのも5度目となった頃、トリシャはある事に気がつく。
それは、今まで一定の距離を置いて追尾してきていた常緑の従者の1人、ロゼッタという少女の姿が見えなくなってしまった事だ。
真っ先に考えられるのは、体力的な問題から追ってくる速度が低下したという事だ。
かれこれ1時間近くも森の中を疾走している。地を走るのと空中を浮いて進むのは、体への負担が違うのかもしれないが、それでも疲労がたまらない方がおかしい。
それをトリシャというお荷物を抱えた状態で追手から逃げなくてはならないのだ。
アイリスが疲労感を表情に出す事は無いが、見た目以上に疲労が蓄積されていてもおかしくはない。
ロゼッタと呼ばれた少女の姿が見えなくなって数分。トリシャはその旨をアイリスに伝える事にした。
「アイリス。さっきから追いかけてくる少女の姿が見えないんだけど」
すると、アイリスは空中を進む速度を少々落とすのだ。
「報告ありがとうございます。また見かけたら伝えてください」
アイリスは横目を向けて返答をすると、再び前を向く。速度を落としたとはいえ、前方を見なければ森に密集している木々にぶつかってしまう。
トリシャは彼女の役に少しでも立とうと、後方に注意をむけるのだった。
「あ!」
突然、アイリスが短い悲鳴を上げる。すると、トリシャが振り向く間も無く、急に90度進行方向が変わるのだ。
「うぇ?」
トリシャが疑問を持った直後、後方を一陣の風が吹き抜ける。葉を散らし、バキバキと枝を折っていく様は、さながら獰猛な猛獣の如く勢いだ。
もし、あの風に巻き込まれていたらただ事では済まなかっただろう。最悪の場合、飛び散る枝の様に骨が折られていたかもしれないのだ。
「アイリス、いまのって……」
「常緑の従者が待ち伏せていたみたいです」
急旋回の後、1度バランスを崩すが、アイリスは素早く立て直す。落としていた速度を再び上げ、常緑の従者から距離を取るのだ。
後方を注視してみると、アイリスが言っているようにロゼッタという名の少女が追尾してきていた。
その事から、暫く姿が見えなくなっていたのは、彼女が先回りして待ち伏せをしていたからだと伺える。
未だに出口の見えない森は、トリシャたちにとっては迷路の様に入り組んで見える。
しかし、常緑の従者たる彼女にとっては地理を知り尽くした庭だと言えよう。
いくら森をさ迷っても常緑の魔女エカテリーナがいる場所へ辿り着く。それに加え、常緑の従者が後を追ってきたり、待ち伏せして攻撃を仕掛けてきたりするのだ。
トリシャとアイリスは、常緑の魔女の手の平の中、迷いの森で徐々に追い込まれていくのであった。




