13話 『少女の寝顔と右手の感覚と』
朝、目が覚めると直ぐ隣でアリアが寝ていた。お互いを抱き合うように体を密着させていて、鼻が触れ合いそうなくらい近い距離に少女の愛らしい寝顔が迫っていた。
慌てて飛び上がりたい気持ちはやまやまだったが、少女の眠りを妨げてしまう行為は止めておこうと踏みとどまる。
何より、右手が腕枕をするように少女の頭の下に敷かれていた為、動こうに動けなかったのだ。
昨日の夜、アリアにミルクティーを入れてもらったとこまでは覚えている。
しかし、それ以降の記憶は曖昧で、寝ようとしてベッドで寝たような気がするのだが、それも定かではない。
何度確認しても、猫耳の少女は腕の中でスヤスヤと寝息を立てながら眠りについている。
この状況を察するに、アリアを押し倒す様にベッドに転がり込んだのだと推察する。
何故なら、ベッドに対し体が横向きになっている時点で、移動途中に力尽きたと考えた方が妥当だと言える。
となれば、倒れるように寝てしまった僕が起きないから、アリアも諦めて寝てしまったのだろうか?
トリシャは彼女に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
さて、どうしたものか。少女を起こせば一発で解決なのだが、先ほどの理由からこの案は棄却される。
少女が目覚めるのを待つのが一番良いのだろうと考えてもみるが、長くは待てそうもない。腕の感覚が無くなってきているので早めに目覚めてくれるのを祈るばかりだ。
血の気が無いのか、はたまた痺れて感覚が麻痺しているのかはわからないが、気が付いた時には腕だけ別の空間に置いてきた様に感覚を失っていた。
少女を起こさない様に腕を抜こうとするが、頭の大半が腕に乗っているのだから、簡単に抜けるはずが無かった。この時、人間の体における頭の重量が以外に重い事を認識する。
トリシャは諦めて、アリアが目覚めるのを待つことにするのだが、改めて状況を確認すると思いのほか際どい態勢に身を投じていることに気が付く。
左手は自由に動くが、少女に覆いかぶさるように倒れ込んでいるように見える。しかも、両足の間に少女の左足を挟んでしまっており、足と足が絡まり合っているので下手に動けなくなっていた。
絡まった足を解こうと動かせば、両足の間で、少女の太ももの柔らかい感触が伝わり、変に意識してしまう。
「んんっ」
急な声に心臓の鼓動が高鳴る。一瞬アリアが起きてしまったと思い緊張感が走るが、静かに様子を伺っていると再び寝息を立てて眠りにつく。
トリシャはホッと胸を撫で下ろした後、再び足の縺れを解きにかかる。
10分くらいだろか、やっとの思いで下半身の知恵の輪を解消することが出来た。少し時間が掛かったが、ようやく仰向けに寝ることが可能になる。
一息つき、右を向くと、スヤスヤと子猫の様に眠る少女の姿がある。その微笑ましい光景に思わず頬が緩んでしまう。
空いた左手で、そっと髪の毛を撫でてみると想像以上に心地良い感触が手の平に広がった。
その時、真っ白だと思っていた髪色は少しだけ藤色がかっている事に気が付く。その艶のある美しい髪の毛はいつまでも触れていたい気持ちにさせ、少女の寝顔を眺めながら頭の上から撫で下ろすトリシャであった。
しばらく髪の触り心地を堪能していると、急にアリアは寝返りを打つ。
いきなりの事だったので咄嗟に触れていた手を放すが、抱き着かれる様な形に寝返りを打たれたので手の置き場に困ってしまう。
アリアの右手は左脇の方に伸びて、親指の付け根が胸の下の方に触れている。先ほど10分以上の時間をかけて、やっと解いたというのに少女の足が右足を掴んで離さない。
頭が肩の方に移動したことで右手が少しだけ自由になるのだが、痺れているのか感覚が無いに等しいので、まだ動かせそうにない。
そんなことよりも、右の脇の下辺りに押し付けられている胸の感触が布越しに伝わってくる事の方が気がかりだ。
右半身に抱き着かれた少女の高い体温と柔らかな肌の感触を意識しないなんて不可能に近い。
そこでトリシャは腕がアリアに触れないように大の字に広げて、なるべく意識し過ぎないように努める。
心の中で早く目が覚めてくれないかなー、と考えながら少女が起床するのを待つしかないのだ。
「んんっ。あれ? 私いつの間に……」
数分待った後に、アリアが目を覚ます。直ぐには目が明かないのか、眼を擦りながら顔を上げる。
「お、おはよう……早速で申し訳ないんだけど、少し離れてもらえると助かるかな」
「ふぇ?」
まだ瞼が開ききっていないアリアは薄目でトリシャの顔を覗き込む。その瞳でトリシャを認識すると、驚いているのが一目でわかるくらいに目を見開いた。
「す、すみません!」
アリアは飛びのくように上体を持ち上げる。
しかし、急に動いたせいで態勢を崩し、彼女は後ろに倒れそうになる。
「危ない!」
「きゃっ」
トリシャは咄嗟に少女の手を引いた。少女の体は軽く、簡単にベクトルの向きを変えて飛び込んでくる。
アリアを胸で受け止めると、少女に覆い被さられる形でトリシャはベッドへ再び寝転ぶ事となるのだ。
「ありがとう……ございます……」
アリアは語尾か消え入りそうなくらい小さな声でお礼を言う。
小さく身を丸めた少女は照れが生じたのか目を合わせてくれない。頭に付いている猫耳は感情と連動しているのか、わかりやすく下向きに垂れてしまっている。
「そろそろ降りてくれないかな?」
小さく体を丸め胸の上で顔を半分隠している少女は、しばらく待っても動く気配がない。
尻尾も耳動揺に垂れてしまっている彼女だが、その尻尾はシーツをなぞる様に左右に振っている。
それがどの様な感情を示しているかは分からないが、早く離れてくれないと先に羞恥心に耐えられなくなると感じるトリシャであった。
「まだ恥ずかしいので、もう少しだけ……ダメ、ですか?」
アリアは胸の谷間で顔を隠す様に体に密着すると、その隙間から覗き込むように見つめて来る。
顔を真っ赤に染めて上目遣いで視線を送って来られると、トリシャは拒めなくなってしまう。
「す、少しだけだよ」
トリシャから許しを得ると、少女はまた谷間に顔を埋めるのであった。そして、その場所で息を深く吸ったり吐いたりを繰り返し始めるのだ。
「すぅ……はぁー……すぅ……はぁー……」
10秒間隔で深い息遣いが繰り返される。
初めは落ち着く為にしている行為だと思っていたが、どうやらそれは違ったみたいだ。なぜなら、口ではなく鼻を使って息を吸っていることに気が付いてしまった。
「ねぇ? もしかして匂い嗅いだりしてないよね?」
「え、ダメでした?」
アリアは小悪魔みたいに、可愛らしくもいたずらっぽく笑ってみせる。
匂いを嗅いでいるように見えたのは間違いではなく、確信犯だったみたいだ。あれだけ盛大に深呼吸をされては気が付かない方がおかしい。
「もう、気が済んだなら降りてよね」
「はーい」
昨夜、寝る前に押し倒してしまっている可能性があるのだ、そう思うとトリシャは強くは言えない。
アリアは返事をすると体を起こし、隣に座り直す。先ほどまでとは違い、愛くるしい猫耳は上向きに直っていた。
コンコン。
部屋の扉を叩く音が聞こえる。
「トリシャ、アリアを見かけないのですが知りませんか?」
間髪入れず、扉越しに少女が用件を伝えてきた。トリシャはベッドから腰を下ろすと、直ぐに扉を開けに行く。
開かれた扉の前に立っていたのはアイリスだった。
「ルミエーラからアリアが戻ってないから探してこいと言われたのですが、やはりここに居たのですね」
部屋の中を確認したアイリスは、ベッドの脇に立っているアリアを見つけると、ほっと胸を撫で下ろす。
「すみません。昨夜トリシャに押し倒されたまま眠ってしまったので……」
アリアはバツが悪そうな顔を浮かべ、アイリスに向かって言い訳をする。間違ってはいないが、その説明だと僕がアリアを襲ったみたいに聞こえてしまう可能性がある。
トリシャは言い訳をしたい気持ちで一杯だったが、下手に口を付くとボロが出そうなので紡ぐことにした。
「押し倒したんですか?」
「いや、違わないけど違う」
問い詰められる様にアイリスに迫られる。
押し倒したのは事実かもしれないが、不可抗力だと主張したい。けれども、どう説明したら誤解無く伝わるか適切な返事が思い浮かばない。
「今夜から私が添い寝しますので、それで我慢してください」
「ん?」
どこからそういった話になったのだろうか? 押し倒すのは悪くて、添い寝は良いのか?
その違いがトリシャには区別がつかなかった。そもそも添い寝をする必要があるのか?
そう思わずにはいられないトリシャであった。
「添い寝って必要あるかな?」
「え、いりませんか?」
アイリスは潤んだ瞳で見上げて来る。
頼むから、そんな目で見つめないで欲しい。その海の様に青が深く、サファイアの様に煌く瞳で問われると、拒絶なんてできるはずがないのだから。
「いら、なくはないけど……」
「アイリス。トリシャが困ってしまっているのでほどほどに――」
困っているトリシャを助ける様にアリアが助け舟を出す。
「あ、そうでした。珍しくルミエが早く目覚めたので朝食の用意を求められていますよ」
アイリスは急に思い出したのか、この部屋にやってきた本題をアリアに伝える。先ほどまでの迫るような姿勢は何処へ行ったのか、少女はアリアの方に駆け寄りながら話をするのだ。
「あ、もうこんな時間。急いで用意します」
アリアは時計を確認すると、早急に部屋を出る。短い方の針は真下の方を指しており、トリシャは急ぐ必要があるか疑問に思った。
「昨夜はアリアにお願いをされたので交代しましたが、あの子に如何わしい事したのですか?」
部屋に残ったアイリスは、アリアが居なくなった途端に話を戻す。先ほどまでの明るい雰囲気とは違い、静かに問いかけてくるのだ。
「してないよ! 昨日は急に眠くなって、ベッドに倒れ込むように寝てしまっただけで、その時にアリアを巻き込んでしまったみたいで……僕も詳しくは覚えてないけど……」
言い訳をするように長々と説明する。その間、アイリスは話を静かに聞いていた。
「わかりました。ですが、もし、如何わしい事をするのであれば、アリアではなく私で我慢してくださいね」
少女が何故、この様な物言いをするのかが気になった。初めはアリアに対する対抗心
だと思っていたが、どうやら違う様にも見える。
彼女の考えが全て分かるわけではないので、その考えに至った過程は知りえないのだが――
「我慢も何も心配いらないよ。僕だってアリアともアイリスとも仲良くしていきたいって思っているんだから、嫌がる事するわけないじゃん」
アイリスが疑念を残さない様に、こちらの考えを包み隠さずに話した。少女が想像するような事なんてするはずが無いのだから――
「そうですか。そろそろ食堂へ行きましょう」
トリシャの言葉に納得したのか、アイリスは元の明るさを取り戻す。笑顔で駆け寄ってくると、腕を組んでくる。
「こ、これじゃあ歩きにくいよ」
「心配しないでください。不自由はさせませんわ」
アイリスは構わず腕を組んだまま歩きはずめる。それにつられるように食堂へ向かって歩き始める。
実際はアイリスが言う通り歩きにくさを感じない。こちらが意識しなくとも、アイリスが合わせてくれるからだ。
嬉しそうな表情で密着してくる彼女を見ると、自然と嫌な気持ちにはならなかった。それどころか、つられて楽しい気分になるのだから不思議で仕方が無い。
食堂へ入ると、そこには誰の姿も見当たらない。アイリスに引きつられ、奥の部屋へと歩を進める。
そこには調理台や食器棚や冷蔵庫が置かれていた。物はたくさんあるが、スペースは広く取られているのか圧迫感を感じない。
「あ、丁度良かった。これからルミエーラの所へ食事を持っていくので、後はよろしくお願いします」
アリアはパンやスープやサラダなどの朝食をワゴンに乗せていく。その動作に無駄がなく、機敏に動く様は見ていて爽快な気持ちにさせてくれる。
「わかったわ。ルミエに報告も忘れずに」
アリアはアイリスに朝食の用意を引き継ぐと、ワゴンを押して食堂を出るのであった。2人のやり取りを、トリシャは興味津々に見ていた。
翌々考えれば、アリアとアイリスが話している姿は初めてで、特に時折敬語を使わない2人に新鮮味を感じた。
「席にお持ちしますので、お掛けになってお待ちください」
言われたままに食堂にあるテーブルの席へ着くと、直ぐにアイリスの手によって朝食が運ばれてくる。
先ほど見かけた、楕円形のパンに豆の入ったスープ、瑞々しく彩り鮮やかな野菜のサラダが並べられると、最後に牛乳が入ったコップが添えられた。
アイリスに一緒に食べないか聞いてみたが、見ているだけで充分だと断られてしまう。
一人で朝食を食べている様子を隣でまじまじと見つめられると、食べにくいと感じてしまうトリシャであった。
「そんなに見つめられると食べにくいのだけど……」
「すみません。でも、トリシャの事を見ていたくて」
アイリスは注意されると、謝ると同時にうつむいてしまった。別に咎めるつもりのなかったトリシャは、逐一少女の行動に口出ししないことにした。
「視線が気になるだけだから、そんなに落ち込まなくてもいいよ」
声をかけると、アイリスは嬉しそうに顔を上げる。落ち込んだり喜んだり忙しい子だなぁ、と思うトリシャであった。