エール
*
その週の日曜日、県立の図書館で中谷さんに会った。
私も中谷さんも丁度帰るところだったから、その流れで、近くの公園で話をすることになった。
年配の方と並んで話をするなんて、いつ以来だろう。
「笠見さんは、陽介のやってる、あの店によく行かれるのかな」
英語はよく分からんから名前は覚えてないんだが、と中谷さんは笑う。
「はい。回数は多いと思います。私の友人も気に入っています」
「そうか、それは良かった」
間を開けない私の返答に、中谷さんはすぅっと遠くを見た。
「……わしは始め、陽介たちがあの店を出すのに反対しておったんですよ」
表情にこそ出さなかったけど、私はとても驚いた。
中谷会長からは「俺たちのことをよく理解してくれてる、優しいじぃちゃん」と言われている中谷さんだ。『BLACK D●T』を開くときも、今浮かべているような優しい笑顔で了承したのだと勝手に思っていたのだ。
「店を開くという責任あることに対して、どれだけの決意があるのかと疑問でしてね」
中谷さんは目を細めてその時の話を始めた。
陽介さんからその話を聞いたとき、真っ先に反対したのは誰でもない、中谷さんだったのだという。 今まで子や孫が言い出したことに大きく反対をしてきたことは無かったが、最近まで学生だった若い二人が店を開くのは、先行きに不安があったらしい。
技術や経験などほとんど無い、ただ目標だけは大きな若者たち。
ひょいと軽々しく身一つでスタートしたとして、どれだけ社会に適うのか。
中谷さんの話は、翔と母さんが言い合っていた頃を思い起こさせた。
「……あの、中谷さんは『始め』反対してたって言っておられましたけど、」
今は、と問いを続けようとしたところで、
「今は、応援しとるよ」
中谷さんの眉を下げた笑顔に、私は言葉を奪われた。
「わしには、まだ若いからと上から見る気持ちがあったんだな。決意に歳など関係無かった。もっとちゃんと必要なことを勉強してからにしろと偉そうなことを言っていたわしが、どれだけのことを知っていたというんだろうか。陽介は、古場くんは、あの時もう既に学んでおったんだ」
そりゃあ運が良かったというのもあるかもしれんが、と彼は続ける。
「結果的に今でも店は続いて、笠見さんのように気に入ってくれている人が居る」
こちらに向けてにこりと笑んだ中谷さんは。
だけど表情のどこかが陰っていて。
「本当に……本当に、すごく気に入っています」
私は真剣に、強く、そう言った。
二人のことを応援しつつ、それでも心配が拭いきれない中谷さんに、私が『BLACK D●T』のことを本当に好きなんだと伝わるように。
――陽介さんと古場さんの決意は間違いじゃなかったと思います。
――きっとこれからだって大丈夫です。
人生経験の浅い私は、中谷さんのように、陽介さんと古場さんに口に出して心配したり保証したりすることなど出来る立場じゃない。
私から出来る応援は、二人の決意が形を成した『BLACK D●T』を、
「私、あのお店、すごく好きです」
そう表現することくらいだから。
中谷さんは、そう言った私をじっと見つめた。
今までにいろんなものや人を見てきただろう目が自分を見ているというのは、一度意識してしまうとすごく恥ずかしくなったけど、それでも私から逸らすことはしない。
しばらくしてから、ふっと、中谷さんが笑った。
「やりたいことを見つけて、準備を整えて、あの二人が選んだものだ。そうだな。そうだ。年寄りが口を挟んで、決意を迷わせることはないな」
お役御免ですな――と息を吐いた中谷さんは、とても満足気な顔をしていた。
たぶん、その時の私は同じような顔をしていただろう。
「笠見さんは、やりたいことが見つかっておるのかな」
朗らかに笑む中谷さんに私は思わず俯く。
「……いえ、まだ」
ありがたいことに特に大きな不満もなく、そしてその分、逆も無く。
なんとなく日々を過ごしている私には、これと定められるものはまだ見えない。
だから見事に決意を形にした『BLACK D●T』の二人は、私の憧れでもある。
そうですか、と中谷さんは目を細めた。
「どうやら雨里もまだ決めかねとるようでな。ゆかりさん……雨里の母親もとても心配して、毎日のように問答しとる。この間は話し合いに熱が入り過ぎたのか、母子二人して泣いとったよ」
――最終的に決めるのは俺だよ――
中谷会長が言い切っていた、あの日の姿が脳内に浮かんだ。
そう言って自分自身に対して強く見栄を張りつつも、やっぱり腰を据えていずれくる決断の日を構えてはいられないのだ。
迷って、悩んで、左右にブレつつ、私たちはどうにかこうにか『次』を選んでいく。
「雨里も笠見さんも、陽介のようにやりたいことが見つかるといいね」
「はい」
深く頷いた私に、中谷さんも頷き返してくれた。
それから色々な話をした。
中でも、中谷会長に『雨里』という名を付けたのが、中谷さんだという話には驚いた。
「厄介なことも多いが、雨というのは天からの恵みだとわしは思っとる」
やがて何処かへ出てしまったとしても、この雨の多い生まれ育った地を、そしてそこに住む自分達をいつまでも忘れないで居て欲しいという気持ちが込められているらしい。
それはとても楽しくて、有意義な時間だった。
「笠見さんのことも、わしは応援しとるよ」
中谷さんが別れ際に言ってくれたその言葉が、その日から私の中で響いている。