此処にもヤツは居たけれど
ピキリと音さえ聞こえそうだった。
思わず怪訝そうな顔をした私に気付き、薄笑いのようなものを浮かべてみせる。
恐る恐るといった口調で、中谷会長は古場さんに尋ねる。
「えーと。それは、傘を買いに?」
「買っていったのは防水スプレーだ。だが、来店の一番の目的はそれじゃなかった。中谷に相談に来たんだよ、お前のことについてな」
「うーわぁ、出た。周りから攻めてくる母さんの手法だよ」
頭を抱え、中谷会長はカウンターに突っ伏した。私は古場さんに尋ねる。
「そのゆかりさんって人が、中谷会長のお母さんですか?」
「そう。こいつを十七年間見放すことなく育て上げた、お母様だ」
突っ伏したままで、元国語教師のねーと隣から付け足しの声が聞こえた。
「で、雨里。お前、結局のところ進路はどうするんだ?」
カウンター越しに古場さんが放った言葉に、私がどきりとした。
ここでもか、と思った。
学生の悩みの中で、避けたくて逃げたくて、でもそれは出来ない重いもの。進路。
「だから、まだ考えられてないんだって」
喉の奥から絞り出すような声には、彼には珍しく苛立ちの色も含まれていた。
「間違えないで欲しいのは、考えてないんじゃなくて、考えられてないんだってことだよ。俺だってこのまま時間を過ごすだけじゃ駄目だってのは分かってるんだけどさ、じゃあコレって決められるものが無いんだ」
「だけど生徒会は続ける、と」
「違う。『だけど』じゃない。『だから』だよ。色々するうちに何かがきっかけになって、何かを思いつくかもしれないでしょ。そこをねぇ、『そんなことしてないで早く決めろ』とか言われるとちょっと結構かなり……ムカつく」
きっぱりと言いきった中谷会長は、よいせ、とようやく身体を起こした。
「ちなみに笠見さんは? もう進路決めてる?」
突然こちらに向いた質問に、私は言葉に詰まった。
小首を傾げた状態で答えを待つ中谷会長に、言葉は出さずに首を振る。
へにゃっと表情を崩し、何度も大きく頷きながら、弱りきったように中谷会長は言った。
「だよねぇ、だよねぇ。難しいよ。周りが焦れていじいじすんのも分かるけど、本人だって悩んでるし、迷ってるんだよ。自分の中で道が決まってる人は凄いよね。もちろん、その人だって色々悩んで迷った末の決断なんだろうけどさ」
両手でカップを包み、中谷会長は紅茶を啜った。古場さんを見据えて言う。
「だけどまぁ、最終的に決めるのは俺だよ」
その言葉は古場さんを通し、中谷会長のお母さんに言っているようにも、中谷会長自身に言い聞かせるようにも聞こえた。
そして、遠くない未来の私にも。
「個人個人、選択の自由だけは絶対だ。誰かに言われたから、なんてのも、その誰かの言葉に従うことを選んだのは自分。逆に、誰かに何か言われても押し切ることを選ぶのも、自分。結局のところ、俺の右手は俺にしか動かせないように、俺の左足は俺にしか踏み出せないように、自分に道を選ばせるのは自分しか出来ないんだからさ」
言い切って、うんうんと自分の言葉に頷く。
そんな中谷会長を目の前に、
「そこまで気持ちが決まってるなら」
と、古場さんは苦笑した。
「率直に、ゆかりさんにぶつけるんだな。俺じゃなくて」
「簡単に言ってくれるねぇ。……母さんの強さ、知ってるくせに」
中谷会長のじっとりとした眼を余裕で交わし、古場さんは珈琲を飲む。
「俺には何も言えないからな。誰かのその後の人生を左右することを示唆するなんて、そんな大それたことは出来ない。俺の言葉でそいつの出す答えに影響を及ぼすことは出来ない。応援しろと言われれば、しないでもない。助けろと言われれば、見捨てはしない。相談だったらいつでも受け付ける。だけど自分から関わることはしない。それが俺の筋だ」
ふと、古場さんの目線が私に向けられた。
「それは俺の筋。『俺の』であって、そうあるべきって訳じゃないよ」
「あ、」
また、どきりとした。
どうして伝わったのかは分からないけど、古場さんは私の悩みを見抜いていたのだ。
大まかにではあるだろうけど、でも、たぶん、はっきりと。
「…………あの、」
自分が何を言おうとしているのかも分からないまま、それでも口を開いた直後。
「ちょっと待って何なの何なの? 圭太さんなんで一人察しちゃってんの?」
「まぁ経験値の違いだな。お前が到達するにはまだまだ遠い」
「む。じゃ、そのためにはどのモンスターを倒せばよろしいですか」
「まずは『常識』という装備を身につけろ。それからだ」
「あっれ、一応あるつもりなんだけど。俺、一月から十二月まで陰暦言えるよ? 英語のつづりも書けるし、あ、誕生石も言えるけど、駄目ですか?」
「――……待て、その発言の何処までが本気だ?」
二人のやり取りに思わず噴き出して、結局そのまま話は流れた。
何が解決した訳でもないけど、少しだけ気持ちが楽になった気がした。