第一話 死んだって、まだ患者でしょうが
個性豊かな知り合いを描きたくて書き始めました。10話まで我慢して読んでもらいたいです。
「院長」
午前二時十三分。
山下医院の診察室で、とこが言った。
「患者さん、死にました」
「そう」
山下光圀は、机に突っ伏したまま答えた。
「じゃあ、寝かせといて」
「……院長」
「何よ」
「死体を放置するのは、医療行為ではありません」
「分かってるわよ」
山下は顔を上げた。
寝癖だらけの髪。
ずり落ちた眼鏡。
白衣のポケットには、なぜかコンビニのプリン。
医者としての威厳は、どこにもない。
「で?」
「ですから、患者さんが死亡しました」
「だから?」
「死亡確認をお願いします」
「嫌よ」
「なぜです?」
「まだ診察が終わってないもの」
とこは無言になった。
「……院長」
「何?」
「死亡確認をしてから、診察を終わらせるんですよ」
「逆よ」
「逆?」
「アタシの診察が終わるまで、患者は死んでないの」
「医学的に無茶苦茶です」
「医学って言葉で人間を諦めるんじゃないわよ」
山下は立ち上がった。
「案内して」
「はい」
二人は診察室を出た。
*
処置室のベッドに、男が一人横たわっていた。
三十代。
仕事帰りだったのだろう。
ワイシャツは泥だらけ。
胸元には血。
呼吸はない。
脈もない。
心臓も止まっている。
山下は男の顔を覗き込んだ。
「……誰が殺したの?」
「まだ分かってません」
「救急隊は?」
「警察に引き渡しました」
「そう」
山下は男の胸に手を当てる。
冷たい。
完全に冷たい。
「院長」
「何?」
「死亡時刻、二時五分です」
「今は?」
「二時十四分」
「じゃあ九分ね」
「何がです?」
「死んでから九分」
山下は腕時計を見る。
「まだ間に合うわ」
とこが眉をひそめる。
「何がです?」
山下は男の胸を指差した。
「この人の人生」
「……」
「とこちゃん」
「はい」
「電気ショック」
「はい」
「アドレナリン」
「はい」
「輸血」
「準備します」
「あと」
山下は少し考えた。
「プリン」
「何に使うんですか」
「アタシが食べる」
「……」
「何よ」
「患者さんより院長のほうが緊張しているようなので」
「うるさいわね」
とこが処置を始める。
山下は男の身体を調べていく。
外傷。
骨折。
内出血。
臓器損傷。
そして――
「……妙ね」
「どうしました?」
「この人」
山下の指が止まる。
「死因がない」
「はい?」
「銃創もない。刺創もない。頭部外傷もない」
「でも胸には血が」
「血が出た形跡だけ」
「……どういうことです?」
「知らないわよ」
山下は笑った。
「だから面白いんじゃない」
「院長は時々、医者として怖いです」
「褒めてんの?」
「いいえ」
「じゃあいいわ」
山下は男の胸に手を置いた。
「戻ってきなさい」
当然、返事はない。
「聞こえてる?」
当然、返事はない。
「アンタ」
山下は少しだけ声を落とした。
「まだ死ぬには早いわよ」
その瞬間だった。
処置室のドアが開いた。
「医院長!」
ミジンコだった。
いつもの胡散臭い笑顔。
ただし、今日は息が荒い。
「ミジンコちゃん?」
「患者は!」
「そこ」
ミジンコが男を見る。
一瞬だけ表情が消えた。
「……間に合いませんでしたか」
山下が振り返る。
「何に?」
「いえ」
ミジンコは男を見つめた。
「その方には、死んでいただく必要がありました」
「は?」
とこが眉をひそめる。
「何ですか、それ」
「そのままの意味です、とこ姐さん」
「私は人の死を必要と言う人間が嫌いです」
「奇遇ですね。私もです」
ミジンコは笑った。
そして山下を見る。
「医院長」
「何よ」
「その患者は、助けないほうがいいかもしれません」
山下の手が止まった。
「理由は?」
「申し上げられません」
「じゃあ帰りなさい」
「医院長」
「アタシが患者を助けるのに、アンタの許可が必要?」
「いいえ」
ミジンコは即答した。
「必要ありません」
「だったら黙って見てなさい」
「……承知しました」
ミジンコは一歩下がった。
山下は男を見る。
「聞いた?」
返事はない。
「アンタ、人気者ね」
返事はない。
「死んでる場合じゃないわよ」
山下は手袋を締め直した。
「始めるわ」
*
電気ショック。
一回。
反応なし。
二回。
反応なし。
三回。
反応なし。
「院長」
とこが言う。
「心拍、戻りません」
「分かってる」
「死亡から十一分です」
「分かってる」
「これ以上は――」
「とこちゃん」
山下の声が低くなった。
「アタシが諦めたら、アンタも諦めるの?」
「……いいえ」
「じゃあ続けるわよ」
「はい」
四回。
反応なし。
五回。
反応なし。
六回。
モニターは静かなまま。
山下は男の胸に手を置いた。
「ねぇ」
誰も喋らない。
「アンタさ」
山下は笑った。
「死ぬのは勝手だけど」
男の胸を叩く。
「アタシの目の前で死ぬなら、せめて一回くらい反抗しなさいよ」
何も起きない。
山下は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
その顔から、いつものふざけた雰囲気が消えた。
「……またか」
小さな声だった。
とこが見る。
「院長?」
「何でもない」
山下は顔を上げる。
「もう一回」
「はい」
七回目。
バンッ!
男の身体が跳ねる。
モニターは――
一直線。
「……」
山下は男を見る。
「ダメか」
とこが静かに言う。
「院長」
「何?」
「もう、十分です」
山下は答えない。
「院長」
「……そうね」
山下はゆっくり手袋を外した。
「じゃあ」
その瞬間。
山下の手が止まった。
「……待って」
「はい?」
「今」
山下は男の胸を見る。
「動いた」
「え?」
「今、動いたわ」
モニターを見る。
変化なし。
とこが首を振る。
「確認できません」
「違う」
山下は男の胸に手を置く。
「心臓じゃない」
「では?」
山下は目を細めた。
「意志」
「……」
「こいつ、まだ生きようとしてる」
山下は笑った。
「だったら話は早いわ」
もう一度、胸に手を置く。
「アンタが生きたいなら」
山下の声が響く。
「アタシが付き合ってあげる」
そして――
男の指が動いた。
とこが息を呑む。
「院長!」
モニターが鳴った。
ピッ。
一回。
ピッ。
二回。
ピッ。
三回。
「心拍、確認!」
「よし!」
山下が笑った。
「帰ってきた!」
男が激しく息を吸い込む。
「――っ!」
咳き込む。
とこが身体を支える。
「ゆっくり!」
男は目を開いた。
焦点の合わない瞳。
山下を見る。
「……ここは」
「病院」
「俺は……」
「死んでたわよ」
「……え?」
「十一分」
男の顔が青ざめる。
「俺……死んだ?」
「そうよ」
「なのに……」
「アタシが嫌だったの」
「何が……?」
山下は笑った。
「患者が勝手に死ぬの」
男の目から涙が落ちた。
「……先生」
「何?」
「俺……」
男は震える手で山下の白衣を掴んだ。
「怖い」
山下の表情が変わった。
「何が?」
「また……殺される」
「誰に?」
男は答えない。
ただ、震えている。
山下はその手を握った。
「大丈夫」
「……」
「ここにいる限り、アンタは患者よ」
「……先生」
「だから誰にも触らせない」
男は泣いた。
その横で、とこが小さく息を吐く。
「院長」
「何?」
「患者さん」
「うん」
「診察料、どうします?」
「……」
山下は患者を見る。
患者も山下を見る。
「……いくらですか?」
「知らないわよ」
「え?」
「死んでた患者なんて初診料いくら取ればいいのよ」
とこが真顔で答える。
「保険証もありません」
「じゃあツケ」
「払えなかったら?」
「働きなさい」
「院長」
「何よ」
「それは病院というより――」
「何?」
「借金取りです」
「うるさいわね!」
その瞬間。
処置室の空気が少しだけ緩んだ。
男も、
ほんの少しだけ笑った。
山下はそれを見て、
満足そうに笑った。
「ほら」
「……?」
「笑えるじゃない」
「……はい」
「じゃあ大丈夫」
山下は患者の頭を軽く撫でる。
「死んだら、うちに来なさい」
患者が目を丸くする。
「……え?」
「死ぬ前でもいいけどね」
山下は笑った。
「アタシが診てあげる」
*
午前三時十一分。
山下医院の玄関。
ミジンコは一人、外に出ていた。
雨はまだ降っている。
ポケットから携帯を取り出す。
「……はい」
電話の向こうから、低い声。
『患者は?』
「生きています」
『……そうか』
「医院長が助けました」
『あの男は、本来なら――』
「承知しております」
ミジンコは笑った。
「ですが」
声が少しだけ低くなる。
「医院長が救うと決めた患者です」
『……』
「それ以上の理由が必要ですか?」
電話の向こうが黙る。
ミジンコは空を見上げた。
「私は、医院長についていきます」
『お前は相変わらずだな』
「ええ」
ミジンコは笑う。
「私は医院長の犬ですから」
電話を切る。
その直後。
玄関のドアが開いた。
「ミジンコちゃん」
「はい、医院長」
山下が顔を出す。
「何してんの?」
「少々、電話を」
「こんな時間に?」
「仕事です」
「ふーん」
山下は欠伸をする。
「戻りなさい」
「はい」
「明日も患者来るんだから」
「承知しました」
二人が医院へ戻っていく。
その背中を、
雨の向こうから誰かが見ていた。
手には一枚の写真。
そこに写っているのは、
山下光圀。
写真の裏には、
たった一言だけ書かれている。
――次は、あの男を殺せ。
その人物は写真を折りたたみ、
静かに笑った。
「……山下先生」
まだ誰も知らない。
この夜、山下医院に運び込まれた一人の患者が、
やがて山下光圀の人生そのものを変えることを。
そして。
この医院を訪れる者たちが、
誰も彼も、
「死」から逃げてきた人間だということを。
第一話 完




